宝塚

2016年9月13日 (火)

宝塚の寺社仏閣

宝塚の歴史散歩のなかでも神社やお寺を紹介してるのですが、そこでは取り上げられてない神社お寺さんを紹介していこうと思います。
宝塚には中山寺と清荒神がメジャーですが、他にも摂津西国の巡礼札所になってるお寺や、歴史のある神社があります。

満福寺
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所在:玉瀬前田

道標があるということで何度か行ってみましたがまだ発見できず・・・

2016年8月20日 (土)

【宝塚】改訂版⁉たからづか歴史 ガイドマップ

このブログで「たからづか歴史散歩」ガイドマップを紹介してきましたが、おそらくこのブログの後に宝塚市のホームページでもWEBで紹介されるようになってますね。
まあどちらが先とかはどうでもいいんですが、やはり本家市役所のサイトのほうがアクセスは多いのかな?
まあそれもどうでもいい。
僕の記憶では以前は「たからづか歴史散歩」のページはなかったのです。
なぜ市の「たからづか歴史散歩」のページに気づいたかというと、グーグル先生で「たからづか歴史散歩」と検索かけたときに僕の記事より上に市のページがきてたからでした。
その時に「ガイドマップを配布しています」というのも見たんですね。
それで先日、市の教育委員会にもらいに行ってきました。
僕がブログで紹介してる「ガイドマップ」と表紙から変わってるんですね。
サイトを見ると平成26年にリニューアルしたらしいです。
宝塚市のサイトで紹介したり内容を改訂して新たに配布したりとちょっと頑張ってる感じがしますね。
これは僕が想像するに、直宮先生が引退されて後任の先生がやったんでしょうね。特にホームページ上での公開は若い人の発想かな。
画像もいくつかは撮り直しに行ってるようですし。
そこで改訂版で新しく紹介されてる宝塚の史跡について紹介していこうと思います。
とりあえずは入れ替え施設名だけを紹介します。
今後現場に足を運べれば画像もアップしていこうと思います。
内容的には7施設がなくなって6施設が新たに紹介されてます。だから1減ですね。
道標は二つ減ってますね。
改訂版で外れた施設は
8阪神競馬場
24ピピア売布
28中山梅林公園
32しだれ桜
37園芸流通センター
57ダリア園
66自然休養村
道標12 切畑山中の満願寺への道標 これは市でも確認が取れなかったのかな?ぼくも探しに行って見つけることができてない道標です。
道標20 切畑の四つ辻道標 これをなぜ紹介してないのか?僕が直宮先生に通報して道路工事完了でちゃんと移設されてるんですがね。工事がガイドマップの改訂に間に合ってなかったのかな?
 
新しく紹介されてる施設は
2仁川旭が丘古墳群【E-8】
旭が丘古墳群には大小3基の古墳があり、2号墳は現在、宝塚市立宝塚第一中学校の校庭に移築され、1・3号墳は現地に保存されています。1号墳は直径約25mの円墳で3基の中で最大のものです。
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これが現地で間違いないと思いますが、案内板も何もないです。
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柵があって中には入れないですが外からでも巨大な積石は確認できます。
所在地は仁川高丸1丁目13かな。
19宝塚文化創造館【E-4】
昭和10年の建設当時は宝塚公会堂として竣工しました。こけら落としでは皇国海軍博覧会の主会場として使用され、昭和12年から平成10年までは音楽歌劇学校本校舎として、約2,400人の卒業生を送り出しました。その後、平成23年7月15日、文化発信の場として新たにオープンしました。
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176号線沿いの旧宝塚音楽学校です。展示会等のイベントをやってるのかな?こんど行ってみよう。
20旧松本安弘邸【D-3】
神戸を拠点に貿易を行っていた土井内蔵くら(松本安弘は土井内蔵の娘婿)の本宅として、川崎忍(土井内蔵は川崎忍の叔父)によって昭和12年に建てられました。外観・内装ともに当時の姿を残す貴重な文化財として、平成17年国の有形文化財として登録され、平成21年には『ひょうごの近代住宅100選』に選定されました。(年2回公開)
36泉流寺【H-3】
「ねむり観音」として地元の人々に親しまれている本尊「木造十一面観音菩薩立像(宝塚市指定文化財)」の泉流寺は、曹洞宗のお寺です。西国の観音霊場三十三カ所に、居眠りをしたため入れてもらえず、それを大変悔しがり、特に居眠りで失敗した人に対する御利益が大きかったという話が伝えられています。
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34天満神社、35行基の投げ石と巡礼街道を西に進むと正念寺に出ます。その角を左に上がったところにあります。
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観音立像の案内板は作り直されてるかな?ほかの歴史遺物の案内板も再整備されてるところがあったので一度確認したいですね。
 
45長尾山古墳【H‐2】
平成19年度から行われた学術調査の結果、全長約42m、内部に長さ6.7m、幅2.7m、高さ1mの巨大な粘土槨(木棺を粘土で覆った埋葬施設)が発見され、全国的にも類を見ない貴重なものだと判明しました。また、付近から見つかった埴輪などの特徴から4世紀初頭に造られた古墳で、宝塚市とその周辺の歴史を考えるうえで非常に貴重であるため、平成22年に宝塚市の史跡に指定されました。
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現地説明会に行った時の様子。
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粘土槨
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石積み
所在は山手台東1丁目、山手台南公園の奥。
現地説明会の後は行ってないのでまた確認に行かなければ。
63丸山湿原【H‐7】
宝塚市玉瀬ほかに位置する大小5つの湿原群からなり、植物種数は45と最多で、湿原面積も兵庫県下最大クラスの湿原となっています。その重要性から、平成26年に宝塚市の天然記念物に指定されました。また、生態系の貴重性を示す「兵庫県版レッドデータブック2011」においてAランクに指定されています。 
まだ行ってませんがグーグルマップで見ると現地に行けるのか?と思うような場所ですね。

2016年4月15日 (金)

宝塚海軍航空隊・桜ケ丘慈母観音

宝塚海軍航空隊の訓練生が鳴門海峡で米軍機の空襲で犠牲になりました。
その悲劇を忘れないように淡路島に慈母観音と石碑等が置かれた桜ケ丘公園があります。
先に読んだ本で終戦間際に大規模な空襲ではなくたった一機の米軍機にやられた悲劇は本当に痛ましいと思いました。
終戦まで2週間ほど。内陸の瀬戸内海で宝塚海軍飛行隊の訓練生が悲劇にあって眠っているところに行ってみようと思い行ってきました。
宝塚を象徴する宝塚歌劇の大劇場が終戦までの約1年を海軍の訓練施設として接収され、その訓練生の約80名の最後の地は淡路島ですが、宝塚の歴史としても忘れてはいけないのではないかと思うわけです。

現地は桜ケ丘公園として整備されているということなのでそこを目指したのですが、ホテルアナガ入口を過ぎたところに「慈母観音」の標識が見えたのでそちらに入って行きました。
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うめ丸ホテルの横を通り建物の裏側に行くと駐車場になっていてこの看板があります。スペースはたくさんあるのでここに車を止めて看板の方向へ行きました。

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公園への入り口の看板があり通路が続いてるので入っていきます。

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すると左手に桜ケ丘公園と慈母観音が見えてきます。
こちらから行くと階段は無いです。


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桜があるうちにと思っていったのですが、桜の木がたくさんあるという感じではなかった。
慈母観音と手前が一人一人の名前が書いてある石碑。

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宝塚海軍航空隊の説明板。

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慈母観音。

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石碑はこの他にもある。

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宝塚最後の予科練や他の人のブログで紹介されてる桜ケ丘公園の入り口はこちらです。
ここはホテルアナガの方へ入ってすぐになります。本では「ここからの階段はきつく年寄りにはしんどい」というふうに紹介されてましたが、一番初めの画像のところからの入り口ができてるので、現在はこちらからの階段を上らなくても公園にいけます。


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下の入り口から公園への石段。この階段の途中にも宝塚海軍航空隊の石碑がありました。

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公園近くの春日寺。航空隊の犠牲者が運び込まれたというお寺です。

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道路沿いに駐車場がありました。

近くの道の駅からの鳴門大橋。午前中の雨で霧に浮かぶように見えたました。
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2016年4月 2日 (土)

宝塚海軍航空隊跡地

最近知ったわけですが、宝塚大劇場は終戦の一年半ほど前から海軍の訓練施設として接収されていました。
跡地の石碑ぐらいはあるのかとネットで検索してみたら、どうも大劇場の敷地内にあるようで、確認に行ってきました。

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桜の下に石碑があります。
ここに3本この左に3本合計6本?
ここを紹介されてる方のブログ等では7本桜のはずなんですがもう一本はどこかな?
予科練の7つボタンで7本桜なんでちょっと気になる。

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石碑のアップ。以前はここにベンチもあったようですが今は無いようです。

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花のみちにある大劇場入り口。
この入り口をくぐりすぐ右の方へ行き駐車場のさくの手前に石碑があります。
ここまでは普通に入れますね。

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上の大劇場の入り口前にある小林一三先生の銅像。
阪急、宝塚といえば小林一三!

宝塚最後の予科練 木下博民

宝塚最後の予科練 木下博民

    鳴門事件と少年兵

この木下氏の書かれた「宝塚最後の予科練」は前半は、形谷さんという練習生の一カ月ちょっとの日記をもとに宝塚海軍航空隊のことを検証し、後半は木下氏が鳴門事件生存訓練生を追いかけたり現地淡路島と鳴門を訪ねる構成となっています。

先日読んだ「宝塚海軍航空隊」のこともちょっと触れられていますが、氏はこの「宝塚海軍航空隊」は”小説”であり内容には作者のフィクションがほとんどで、作者が戦争のことを表現するための題材として宝塚海軍航空隊と鳴門事件を取り上げたのであるという見方のようです。
僕は歴史小説という風に思いましたが、この「宝塚最後の予科練」を読んだ後は、やっぱりフィクションの割合の方が若干多いのかなという感じもしました。

さて木下氏の「宝塚最後の予科練」は作者が小説家ではなくて元帝国陸軍の帰還兵で、戦後は大手企業で活躍されたビジネスマンということで、歴史的事実を丁寧に追っていこうという姿勢で書かれていますね。

日記というのはやはり、何月何日 ○○をした。○○だった。などとその日の出来事を断片的にしか書いてないものです。
その日記の記述をもとに当時の海軍の生活や予科練、宝塚海軍航空隊の状況を解説してくれてます。
木下氏は陸軍出身なので海軍との用語や部隊生活、上官との間柄の違いなども具体的に書いてありますね。

「鳴門事件」とは終戦直前の8月2日、宝塚海軍航空隊の少年兵を乗せた船が、鳴門から淡路に渡る途中でアメリカ軍一機の銃撃で壊滅状態になった事件です。

戦争はどの部分を見ていっても酷いものです。それでも氏はこの鳴門事件が戦争の悲惨さや、やるせなさを凝縮してるんではないかということで掘り下げて調べていくわけです。

まず、終戦まで二週間というところで犠牲になったということ。そして”海軍の飛行兵”として予科練に入ったのに、すでに乗るべき飛行機もなく土木作業のために淡路に向かっていた。そして移動のタイミングの悪さ。
戦争においてのどうすることもできない矛盾がいっぱい重なって起こった悲劇は本当に悲しい出来事ですね。

この終戦間際の鳴門での悲劇の出発地が宝塚ということがほんとに驚きでした。
宝塚歌劇は華やかな世界ですが終戦までの一年半ほどは基地として使われ、そこの訓練生が鳴門で悲劇的な死を迎えたことを忘れないようにしたいです。

2016年3月22日 (火)

宝塚海軍航空隊 栗山良太郎

宝塚海軍航空隊  栗山良太郎

太平洋戦争末期に宝塚歌劇の大劇場が海軍の基地として終戦まで接収されていました。
この本はその宝塚海軍航空隊の歴史小説です。

まずプロローグに三つの話がある。
一つは宝塚歌劇団の組長の話、もう一つはおそらく元宝塚航空隊の人の想い出、そして最後に海軍下士官の益田勝男の日記の一部。

この物語は僕はジャンル分けするとすれば「歴史小説」というくくりになるのではないかと思う。
この小説は、プロローグの最後の益田下士官の日記をもとに作者の栗山氏が物語に仕上げたものだと思うからです。

なぜこんなことを書くのかといううと、この本は作者の解説的なものが一切ない!
「はじめに」とか「あとがき」とか「注」とかがないのですよ、だから作者がどういう経緯で宝塚海軍航空隊のことを書こうと思ったのかや、益田氏の日記にどうして巡り合ったのかや、登場人物の名前が実名なのか仮名なのか、そういうことすら一切説明がないから想像するしかない。

一般的でない言葉には”注”をつけたり、本文中に説明文的なものを書いたりしてくれる小説も多いと思いますが、この栗山氏の宝塚海軍航空隊ではそういう説明もないので、結構理解しにくいところもありますね。漢字の使い方も今ではほとんどひらがなで表現するようなあまり使われない漢字が使われていて結構難しい。

たとえば「甲板掃除」「半舷上陸」などという言葉が出てきますが、最初ちょっとわからなかった。
これは海軍用語ですが、陸上の部隊なのになんで?と思ったんですが、おそらく海軍では地上勤務でも訓練休日で部隊から出て下宿先や家に帰ることを「上陸」と言い、部隊兵舎の掃除のことを「甲板掃除」と言うんですね。

終戦の約一年前の昭和十九年六月ころから昭和二十年八月十五日あたりまでの益田下士官の宝塚海軍航空隊の生活が描かれています。

これを読むと終戦一年ほど前から急激に日本の戦況が悪化して、無理な兵員募集を掛け始めたのがこの頃だったのだなとわかります。

登場人物は益田下士官を中心に練習生、班長仲間、上官、両親等でそれほど多くはないと思うのですが、それぞれに濃い物語がありますね。
先にも書きましたが、この物語は、益田下士官の日記をもとに作者が話を肉付けして作られてます。日記というのは、プロローグで一部紹介されてますが、「何月何日、こういうことがありました」くらいしか書いてないことが多いと思うのです。
日記にいちいち「私はそのときこう言った」とか「彼の気持ちはこうであった」などとは絶対書いてない。
そういう断片的な日記による情報からだけでこの物語を作ってるのだから、やっぱりこの「小説」はそういう意味で読みごたえがありますね。

しかし、読んでいると、あまりにリアルな情景描写に、益田下士官や登場人物で戦争を生き残った人に取材して書いたんだろうなと思えてくる。
実際何人かは小説ができた時点で生存されてるようなので、その方たちへ取材された内容も反映されてると思いますが、いちばん肝心の主人公には取材してない・・・

宝塚に海軍の航空隊の訓練基地が歌劇場に設置されていたというのもびっくりですが、戦時中の日本で、戦争と全く無縁な場所なんてなかったという方が正しいのでしょうね。

そして終戦を迎えたときの帝国軍人と民間人とではその思いが全く違っていたんだなというのがわかりますね。

もう戦後の痕跡なんて日常で見ることはないわけですが、地元宝塚でもこういうことがあったという歴史は忘れずにいたいですね。

追記:木下氏の「宝塚最後の予科練」を読んでの感想ですが、歴史小説より宝塚海軍航空隊を舞台にした”小説”という位置づけの方が良いのかな?
上にも書いてますが本書は注やあとがき等がなくて、作者がどういう風にこの小説を書いたのかわからない。だから今思うと登場人物の名前等はほとんど仮名かな?
フィクションの部分が多いとしても宝塚にあった海軍航空隊の生活と鳴門事件についてしっかり読者に読ませる物語としては良い話だと思います。
それに全く作り話ということでもなくて、やはり宝塚海軍航空隊のことを知るにはいい本だと思います。なにより読みやすいです。

2015年9月10日 (木)

宝塚のお店

宝塚の街をうろうろしてますが、宝塚市内のスィーツやらなんやら立ち寄ったところを紹介していきます。
ぼちぼち更新予定・・・

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魚食処 まるさん 松本
南口駅から宝塚ホテルに沿って温泉街の方へ行くとすぐ。
なんと午後の1時くらいに行ったら店の外に行列ができてた!
メニューはお昼は、お造りの定食や海鮮丼の定食や天ぷら定食等があります。
結構ボリュームあり、ご飯はおかわりできるようです。
夜は海鮮居酒屋風の店になるのかな。宝塚で行列ができる店があるなんて驚きでした。おいしいです。

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8コーヒーさん(はちコーヒーと読むようです)
まえから気になってたコーヒー豆のお店です。中に入るとコーヒーの匂いが充満してます。喫茶店ではないので基本的に中でコーヒーを飲むスペースというのはないけど、テークアウト用のカップで淹れたてのコーヒーが飲めます。
豆は生豆で置いてあるそうで注文してから焙煎してくれます。
苦みとか酸味とか好みを伝えて注文しました。
今回ほろにがブレンドを飲ませていただきましたが、最初苦みありで後味すっきりでおいしかったです。

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まずは家のご近所、安倉小学校前のパティスリー・ミエルさん
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お菓子のお店 Kazuさん
JR中山寺から南へ出たところ、中筋のお店です。

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Kazuさんのケーキ。もちろん美味しい。
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小林にあるお菓子のお店 OKINAさん。こちらも人気店ですね。
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OKINAさんのモンブラン。
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阪急山本駅横の焼き菓子とスィーツのお店 ジュールフェリエさん
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小林、中津浜線沿いラーメン はなてんさん
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和菓子 長生堂さん 旧176号線沿い 山本から中山に向かう途中にあります。
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いろんな味の大福

2015年3月 1日 (日)

【宝塚】たからづかの道標その壱

たからづかの道標:宝塚市教育委員会 昭和61年3月

宝塚市文化財資料6

この冊子は宝塚教育委員会が歴史資料としての道標と街道を整理したものであります。

この冊子のはじめに、道標に関して5本の論文があります。

1.古代から中世にかけての道筋
2.近世の街道の成立
3.道標
4.一里塚
5.宝塚市の道路元標

そこで書かれてることをちょっとだけ触れておきましょうか。

宝塚には4世紀~7世紀にかけて長尾山あたりと武庫川の西麓に古墳がたくさん築かれる。はじめはそれらを結ぶけもの道のようなものができて、それが道になったり、またすたれてなくなったりしてるだろうと思われる。
その後有馬に行くための道や、京都から西国に向かう道が通っといたのではないか。
また中山寺、清荒神、満願寺などの巡礼の道もできる。
そして三田や丹波に抜ける道もできていく。
宝塚でまず中心地となったのは今の小浜なんでしょうね。現在も小浜宿は一部保存されています。

宝塚を通る古い街道筋

[南部地域]
有馬街道:  大阪ー伊丹ー小浜ー生瀬ー有馬・三田
京伏見街道:小浜ー口谷ー加茂ー瀬川―半町ー京・伏見
西宮街道:  小浜―伊孑志ー西宮
巡礼街道:  箕面(勝尾寺)ー池田ー平井ー(中山寺)-米谷ー社町(清水寺)
丹波街道:  伊丹ー口谷ー平井ー丹波

[北部地域]
         木津ー三本峠ー上佐曽利ー木器
         池田ー多田ー広根ー銀山ー長谷ー大原野
         波豆ー山田ー三田
         広根ー猪淵ー切畑ー武田尾

道標は現在でいう道路標識なので、設置場所は
街道の曲がり角、街道と街道の交差点、街道と間道の交差点、間道と間道の交差点、社寺の入り口や参道になります。

道標の形式は、形では自然石型、切石型などがあり、道標に刻まれる方向では、社寺と集落に分かれる。

道標にはそれを建てた建立者の名前が彫ってあることが多く、個人名や団体名などが記される。

江戸時代に設置された一里塚は、宝塚では小浜と丹波街道の口谷あたりに設置されていたようだがいまは無いようです。

宝塚市内の道路元標は、大正時代に旧4ヶ村、武庫郡良元村・川辺郡小浜村・長尾村・西谷村に建てられた物がすべて残っている。

直宮先生を訪ねた時にいただいたもので、宝塚歴史ガイドマップとだぶるところもありますが、道標だけを集めた資料として現在の姿を調べつつ紹介していけたらと思います。

この61年に先だって50年に「たからづかの道標」を出して、市民に好評だったということで整理しなおしたものだそうです。
しかしそこから既にもう28年も経っています。
ガイドマップで廻ってるだけでも既に数本の道標が無くなってるようなので、すべてを確認するのは難しいでしょうね。
ガイドマップを周る時に撮った画像もあるので、調査は2013年からということです。更新は随時なんであしからず。
道標の説明はこの冊子を基にしますが、現在地や住所等は今の地点住所で書いていきます。

グーグルマップ にポイント落としましたので参考にどうぞ。
マップの街道筋は、今も道路が残ってるところもありますが、道筋が変っていたり道が無い部分等は想像で線をひいてる部分もありますので、参考までにしていただければと思います。

ぼちぼち廻っていきましょうか。

道標1
所在地:安倉南4丁目9(民家の角になります)
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正: 右 中山くァんおん道
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右:   願主大阪住人
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左: 左 小者まさん多
     阿り満たしま

背:   享保廿一丙辰年三月 日

解説:有馬街道
伊丹方面から宝塚市域に入った所、天王寺川沿いの中山寺近道が分岐するところにある。
左の字「小者まさん多」は「小浜・三田」「阿り満たしま」
は「有馬・但馬」の意。

解説では第一無線のフェンスの中とあるが、今そこは住宅地になっていて、道標は道路に立っている。これを読んで、そういえば昔第一無線ってあったな~なんて思いました。

道標2
所在地:安倉南4丁目13
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右: 右ハあまかさきみち

正: 寛文八年      千日かくや
   南無阿弥陀仏   道心西念
   申二月吉日

左: 左ハいたミノみち

説:有馬街道・宝塚指定文化財
    (寛文八年=1668年)
昭和57年8月、若林泰氏と古川久雄氏によって発見され、現在兵庫県下で最も古い道標のひとつであることが確認された。
「千日かくや」とは千日祈願の満願成就を祈り「かぐや」という屋号で出家した西念という人が立てたものか、隔夜信仰のことかどちらかであろう。
このほか、伊丹市、川西市、池田市等に寛文年間に立てられた道標が7基確認されており、北摂地域に江戸時代初期のものが多いのは興味深いことである。

昔はすぐそばの説明板の横に立っていたけど、現在は祠に入ってるので文字は読みにくいです。
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現在の様子、右の祠の中に有るのが道標。

道標3
所在地:安倉中2丁目10(住吉神社境内)
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正: 右 尼ヶ崎

解説:小浜方面から西野(伊丹市)を経て尼崎に至る道の分岐点に立っていたものと考えられる。現在住吉神社の境内の中に置かれている。
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神社の鳥居をくぐってすぐ左手に置いてありました。
元位置は住吉神社のすぐ北側の分岐ではないでしょうか。道標4と二つ立っていたのかな。

道標4
所在地:安倉中2丁目2
元位置:現況の南側の三叉路か

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正: 右 中山十八丁
   左 小濱有馬三田

解説:上部に仏像を彫り、よく整った美しいものである。
西野方面から来る旅人に中山寺方向と小浜方向を指示している。
もとは少し南の三叉路に南面していたものと考えられる。

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道路沿いにちょこんと立っている。住吉神社を出て左に行って三叉路を斜め左に行ったすぐです。

道標5
所在地:安倉北2丁目16(安倉第一会館西側)

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正: 右 大坂ミち
   左 京ミち

解説:有馬街道
小浜東口から来る人に方向を指示している。これも原位置からい移動している。

ポストの横にある。元の場所はどこか。

道標6
所在地:小浜5丁目8(交番の向かい側)
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解説:有馬街道
    嘉永五年=1852年
もとは小浜の派出所と道を隔てた東側の民家前に立っていたが、現在は民家庭内にて保存されている。
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正: 右 中山道
      大坂
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左: 左 三田有馬
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左: 嘉永五年正月建
     施主玉屋仁兵衛

この調査の後また移動したようで、現在は民家前にあり見ることができる。交番の向かい側。

道標7
所在地:小浜5丁目4(皇太神社前)
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正: 子丑寅卯辰巳
   右きよ水 午の女
          巳女男
   午未申酉戌亥

解説:有馬街道
小浜を経て西国25番札所清水寺(社町)へ参詣する人の為に立てられたものであろう。かなり風化している。両側に十二支を分けて書いてあるのは珍しいものである。
施主と思われる午歳の女・巳歳の女、男というのも数少ない表現である。

道標8
所在地:米谷1丁目18(国府橋の北の辻)

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右: 施主
     樽屋市兵衛

正: 右 大坂
   左 の道

解説:有馬街道
国府橋は明治以降に架けられたものであり、それ以前は橋の南たもとの急な坂道を下って大堀川を渡り街道に出ていた。
「左の道」は左の方は「野道」という意味である。

国府橋を渡り清荒神方面に道なりに曲がる交差点の南東角にあります。

道標9
所在地:米谷1丁目8 旧和田邸内
元位置:小浜4丁目8小浜宿東口か

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正: 右 西の宮 道
      兵庫
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左: 弘化三丙午年五月建之
   為釈保淳菩提

解説:有馬街道
    (弘化三年=1846年)
もと小浜の東口にあったものである。米谷庄、和田源右ヱ門光信がその兄喜三郎の菩提を弔うために造立したものである。

旧和田邸は公開されていますが、道標は裏庭にあるので、先生に案内してもらうといいでしょう。いろいろお話も聞けるので、ぜひ立ち寄ってみてください。
元位置は小浜宿東口だと思われるということなので、現在の中国縦貫道の西側にある小浜宿東口のところ辺りでしょう。

道標10
所在地:宝塚市米谷1丁目4(旧和田邸から西に行ったところ)

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正: 延喜
    式内  売布神社

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右: 従是北八丁

解説:有馬街道
付近の街道沿いは小浜と同じく古い町並みをよくとどめている。
米谷の中心部から売布神社参道へ向かう近道の分岐点に立つ。
大変大きく玉垣をもった立派な石標である。

小浜宿の集落から清荒神へ行く途中にあります。大きいのですぐわかります。

なんと!今日平成28年3月1日、前を通ったら更地になってた!
もちろんこの大きな道標もなくなってた!個人宅の土地が売りに出されてる、道標はどこに行ったのか?大きい道標なので通りがかった時にあれ!?と思って引き返し、家に帰ってグーグルマップで確認したらやっぱりここだった・・・
こういうのはもう行方不明のままになるのかな。歴史あるものがあっさり失われるのはちょっと理解できないですね。
市の指定になっていないと「無主物」となるのでどうしようもないということのようです。

道標11
所在地:清荒神3丁目4

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正: 中山道

解説:有馬街道から巡礼街道への分岐点にあるが、現在民家の石垣の中に取り込まれており、見えにくい。

これは現状は民家の壁際の道路上にあるので見えやすくなっています。有馬街道の阪急踏切を渡り清荒神参道へ向かう途中、中山寺からの巡礼街道との辻にあります。

道標12
所在地:清荒神3丁目4

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正: 日本
    第一 清荒神霊社  従是八丁

解説:有馬街道と清荒神参道の分岐点の東に立つ。
「日本第一清荒神」と称されるように昔から厚い信仰を受けている。
今でも「かまどの神様・清荒神さん」として広く一般に信仰され、いつも参詣する人が後をたたない。

清荒神駅から商店街を抜けて有馬街道に出たところです。清荒神参道入り口。

道標13
所在地:清荒神3丁目2
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正: 日本
   第一  清三寶荒神王(道)

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左: 赤尾保

解説:清荒神参道
参道入口の鳥居西の上垣の中に東面して立つ。
かつてこの付近は「六軒茶屋」と呼ばれていた。清荒神の中にあった茶屋のうち六軒が街道沿いに移転した為にこう呼ばれるようになった、と伝えられている。

道標12のすぐ西側。大きいのですぐ目につきます。

道標14
所在地:清荒神5丁目16

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正: 清四丁
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左:   西成玉出町
           魚富

解説:清荒神参道
鳥居付近を起点とする丁石である。四丁の丁石の「魚富」と五丁の丁石にある「西尾冨蔵」なる人物は、丁石の形態が同一であることから、おそらく同一人物であろう。
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正: 清五丁

右:   西尾冨蔵

小柄な低い道標なので、注意して見ていかないと見落としそうですが、参道をゆっくり注意しながら歩いていけば気づきます。中国道の下あたりだったかな。道標13から参道を登り始めてすぐに「清一丁」の道標もあるけど、これは解説にない。比較的新しいのかな。

道標15
所在地:小浜5丁目1

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正:貞享四 丁卯 暦 右ハ西宮(道)
  南無阿弥陀仏   左ハの(道)
  九月吉日

左:            五郎
              長次
              四良

解説:西宮街道
「南無阿弥陀仏」の下に蓮華文が彫られている。
小浜南口から、伊孑志の渡しを経て西宮へ向かう道筋を示している。
貞享四年(1687)という年は、小浜と生瀬との間で西宮への荷継ぎ権を正式に獲得するべく宿場町の存続をかけた争論が頂点に達した時期にあたる。

場所は、小浜小学校の西側の道を下った一つ目の角。首地蔵の方へ曲がるところです。電柱で見えにくい。下が結構埋まってましたね。

道標16
所在地:小浜宿内
元位置:小林3丁目

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正:  元禄十五年
   南無阿弥陀仏 左西宮道
     四月十二日

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左:  右 小濱道
     左 有馬道

解説: 西宮街道
もとは東面して小浜から西宮方面へ向かう方向を示していた。現在は宝塚市文化財収蔵庫で保管している。
元禄十五年(1702)は、上述した小浜、生瀬間での論争がやや小浜にとって有利に展開してきた時期にあたり、No15の道標と同じく小浜から西宮へ向かう道筋を正式に認められることを期待して建立されたものであろう。

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元位置は小林のこの交差点かな?
小浜宿資料館の中庭にあるので、まじかで見たい時は資料館の先生にカギを開けてもらいましょう。

道標17
所在地:小浜宿
元位置:小林三丁目1

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正: 右 中山道
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右: 左 西宮道

解説: 西宮街道
現在の場所では左右が反対になっている。おそらく元は道路の反対側にあったものであろう。

元位置は道標16の元位置のところかな?

道標18
所在地:小林1丁目7

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正: 武庫山平林寺聖徳太子開基
       本堂釋迦尊薬師佛 富国第二 観音堂

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右: 是より一丁余西山道
       但し西宮ぬけ道阿里

背: 十方一切法界塔 宿坊宝珠院則籠代

左: 寛保二 壬戌年十月 日
          大阪講中世話人

解説: 西宮街道
     (寛保二年=1742年)
No16,17の道標より南進して行き平林寺参道との分岐点に立つ。
正面上部に仏像を浮彫りし、他の三面上部には月輪に梵字を彫っている。

逆瀬川から西宮街道を小林方面に進んで行くとすぐに見つかる。

道標19
所在地:小林1丁目3(平林寺参道)

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正: 三寶大荒神  平林寺
          すぐ寶樹院

右: 本宮代  願主
           講中

解説: 平林寺参道
形のよい自然石に雄渾な筆蹟で刻まれている。
「荒神」とは竈の神様であり、清荒神清澄寺が有名であるが、ここに記される「三寶大荒神」とは平林寺境内に祀られている荒神さんのことである。
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資料の写真ではガードレールの右、駐車場内になっているが、現在は参道側にあるので、ちょっとだけ移動してるようです。

道標20
所在地:小浜宿内
元位置:小林の街道筋のどこか

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正: 右 ありま道

解説:もとは小林の街道筋にあったようである。おそらく小林駅東方の街道と山道の分岐点にあったものと推定される。
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小浜宿資料館の中庭には合計で四本の道標が移設してあります。
元の場所はどこか。

道標21
所在地:仁川宮西町1(仁川小学校西南角)

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正: ☜法華閣

解説:花崗岩の荒削りの面に☜を陽刻市法華閣への道筋を示す。
同種のものが北側にもう一基ある。

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北側のもう一本。上の道標は運動場のフェンスと雑草でちょっと見えにくい。北側のは歩道に立っている。
「法華閣」とは、日蓮宗のお寺がこの先にあったのでそこへの道標ということのようです。現在はなくなっていて、おそらくゴルフ場の辺りになると思います。

道標22
所在地:野上1丁目2

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正:  右 寶梅園

背:    八馬建之

解説:県道生瀬~西宮線から西へ入り阪急線ガードをくぐったところの石垣の上に東面して立つ。
宝梅園付近が開発され住宅化が進んだ昭和初頭頃に立てられたものであろう。

コープの北側の道を西へ、線路の方へ行き、ガードをくぐった先にありますが、生垣に覆われていて一回目は見つけれなかった。

宝梅園という果樹園がかつてあったのですね。「八馬」とは西宮で馬がつく名前の名家の一つ八馬家のことですね。

道標23
所在地:中洲1丁目3

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正: 塩尾寺観世音
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右: 是より
      十八丁

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左: 摂(州)尼崎講元
     願主 難屋利兵(衛)
         大江巳之

解説:塩尾寺参道
県道と参道との分岐点に南面して立つ。塩尾の名の由来は尾根から塩水が湧水したとの言い伝えによる。塩尾寺は十一面観世音菩薩を本尊とする。
「摂しゅう」は「摂州」の意である。(しゅうは刀を三つで書く?)

逆瀬川から南口に向かい塩尾寺参道との分かれ道にある。この分岐点から左道が塩尾寺道ですね。川を渡ったところが道標24の元あった場所。

道標24
所在地:塩尾寺展望台公園
元位置:南口2丁目1

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正: 観世音常夜燈
           塩尾寺
           願主
           大坂
           高砂屋

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背: 天保十五甲辰
         十一月

解説:塩尾寺参道
     (天保十五年=1844年)
支多々川を渡った左岸に一対ある燈籠のうち左側のものに記されている。

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ここが南口2丁目1の元の場所です。現在マンションですが一角に燈籠があったような感じの場所がありました。
はじめは一本だけが塩尾寺手前に移設されたようですが、残りの一本も近くに移設されたようです。

現在の灯籠の場所は、塩尾寺に登っていく途中にちょっとした広場のような休憩所があり、そこの入り口に立っている。
ここの広場も初めてきましたが、視界が広がっていて景色がいいです。夜景も良さそうですね。

2014年8月17日 (日)

【宝塚】たからづかの道標その四

たからづかの道標その四です。

その壱

その弐

その参 

グーグルマップにポイントを落としてます。

道標67
所在地:売布3丁目15

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正: みぎきよしこうじんみち
   右 清荒神道
            すく

解説:道標55、道標56を右に折れて、売布神社へ向かう道筋の左側に、民家の石垣によりかかるように立っている。
上部に「阿閦如来」の梵字が彫られており、また、読み仮名を一緒に記しているのは珍しい。

道標55、56のところから坂道を登っていくとすぐにあります。民家の塀に隠れるようになっていますがすぐ見つかります。

道標68
所在地:売布小学校内

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正: 左 中山道 
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背: 右 きよ水ありま
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右:  惣作
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解説:もと売布から清荒神近道と売布神社参道との交叉点、上の池の畔にあったものである。
左右側面の剥離面を未調整のまま残す。真中あたりで折れているのは惜しまれる。

売布小学校内の校舎にかこまれた中庭の中に69の道標と並んで奇麗に立っていました。
小学校内ということで勝手に侵入すると事案が発生してしまうので電話で訪問の意図を告げて許可をもらいました。案内は教頭先生が丁寧にしてただきました。

道標69
所在地:売布小学校内
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背: すく中山道
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正: すく荒神道
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右: なだ
     若林嘉兵衛

解説:売布~清荒神近道
池の堤にあったものを開校当時、売布小学校に移したものである。
道標本来の役目を終え、今は小学生の歓声の聞こえる中庭で、道標68とともに教材として利用されている。

若干下が埋もれて字が見えなくなっています。
道標68と並んで立っています。

道標70
所在地:売布ヶ丘2

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背: すく中山道
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右: なだ
    若林嘉兵衛

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正: 左 荒神道

解説:売布~清荒神近道
中国縦貫自動車道の建設によって周辺の状況が変っており、本道標も場所が移動したものである。

道標57の道を山の方へ登っていったところです。資料作成後にここの土地の建物を建て替えたのか、当時と道標の向きが変ってます。

道標71
所在地:売布ヶ丘2
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正: 右中山へ
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解説: 売布~清荒神近道
比較的最近のもので、文字の彫りも明確端麗である。

資料の解説では70の道標と並んで立っていましたが、同じ区画の西南角に移設されたようです。

道標72
所在地:清荒神3丁目(長池の西端)

右: 左 中山寺

正: 右 清荒神

背: なだ
     若林嘉兵衛

解説:売布~清荒神近道
道標70から西進した分岐点に東面して立つ。
今でもこの道標を利用する人が少なくない。
若林嘉兵衛の手になる道標の中で最も西に位置する。

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長池の西端となってるが、現況は画像の自治会館になていて見てけることができなかった。
先生に確認しましたが、以前はあったということのようです。最近また行ってみましたがやはり不明。

道標73
所在地:切畑字長尾山
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正: 右かう志ん

解説: 中山寺奥の院から尾根筋の道を南下し、清荒神への分岐点に立つ。
全体にこけが付着して古びた感じのする自然石の道標である。
自然石表面を角柱型に浅く彫り下げ、そこに文字が刻まれている。
下部が地面に埋まっているため、他に文字が刻まれているかどうかは不明である。

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中山寺奥の院への道の途中にある”夫婦岩”の南側に売布神社駅への分かれ道があります。ここには看板も立ってるのでこれを目印にすればいけます。
夫婦岩から売布神社に向かって進んで行くとこのようにフェンスの際に道標が見えてきます。

解説にはここが清荒神への分岐点となっていますが、今は清荒神への道は使われていない様子でした。
Img_1955
ここが売布側からの奥の院への入り口。
この道標は中山寺から奥の院への道沿いにあるんだと思い込んで探してみつからなかった。
もう一度資料と付属地図を見直したら、どうも中山寺の奥の院への道からずれてる。
ということで売布側から入ってみると見つかりました。
資料の地図の位置はかなり正確なところにポイントが置いてあると判りました。

道標74
所在地:栄町2丁目

右: はんきゅう

左: こくてつ

解説:表面を粗い加工のままにして、温泉街から国鉄及び阪急宝塚駅方向を指示している。近年立てられたものである。

宝塚駅周辺の再開発区域ですね、見つけることが出来なかった。再開発で無くなった模様。

道標75
所在地:切畑字南カイチ2

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左: ←いぶち銀山ひろね
75img_1072
正: →たけだを四十丁
75img_1073
右: 広芝

解説: 広根(猪名川町)~武田尾と鳥脇~玉瀬との交差点に立つ。
道標78と同じく矢印で指示標示をする珍しいものであり、「広芝」と、道標78の「廣芝茂兵衛」は同一人物か、あるいは何らかの関係のあるものと考えられる。
75img_1070
ここの交差点は新名神の周辺工事で道路が広くなってます。
この工事に伴って歩道に無事再設置されました。

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少し前まで工事中はこういう風に放置されてた。
この状態で僕が発見して直宮先生にお知らせして現在の再設置になったのかな?ちょっと貢献できたかな。
宝塚市街地から西谷へ向かっていく道沿い。
武田尾に曲がる交差点です。

道標76
所在地:切畑字宮ノ後

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正:   右池田いたみ
    南無阿彌佛
     左いぶち多田院

右:  元禄十五年午九月

左:  施主 北切畑大工
            権右□□

解説: 切畑~玉瀬の旧道にある。(元禄十五年=1702年)
「南無阿彌佛」と記し、供養塔の色彩の濃いものであり、旅人もまたこの道標に手を合わせ、旅の安全を祈ったことであろう。

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解説にある通り旧道に行けばすぐわかります。
道標75の交差点を北にちょっといったところで左にそれる道があります、そちらが旧道なのでその旧道を入ってしばらく行った右手にある。お地蔵さんは祠に入ってるけど道標はその横でむき出しです。
資料作成時とは現況が変わってるようです。祠があるので横は読めない。

道標77
所在地:玉瀬字前田 満福寺境内

右: 玉瀬村
     同行十一人

正: 右 高平たんは道 安□(等)カ
   奉供養西国三十三所ニセ為
   左 ざい所ミち

左: 安永七年
     戌三月吉日

解説: (安永七年=1778年)
玉瀬村の住民11名が西国観音霊場三十三カ所巡礼を無事終えたことを感謝して立てたものである。
上部平端面に径3.5cm、深さ3cmの枘穴があけられており、地蔵台石を兼ねていたものであろう。

満福寺境内を歩いてみたけど見つけることが出来なかった。再度行ってみたが解らなかった・・・
先生によるとお墓側ということなので僕が探してないところにあるようです。

道標78
所在地:芝辻新田ナキ谷 長坂峠登り口

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右: →右銀山。広根。妙見道
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正: ←左 へうたん鉱山
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左:   廣芝茂兵衛

解説: 銀山~大原野道
長坂峠の登り口、「へうたん鉱山」は、猪名川町銀山を中心とする鉱山で、豊臣秀吉が賞として馬印の千成瓢箪を与えたことにより呼ばれるようになったものであり、明暦~寛文年間(1655~72)に最盛期を迎えた。

この場所は普通は通らないところですね、ディープ西谷です。
目印としては太平洋クラブ宝塚コースの入り口のすぐそばです。
資料の写真だとカーブの内側にあるけど、現状は山側で、道路向かいに移設されたということです。草に覆われそうで見えにくいです。

道標79
所在地:長谷字小畑 長谷大池東

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正:  右ながたにさそ利
           出雲州大原郡
    南無阿弥陀佛 西日□村
           行者嘉右ヱ門
                世話人
    左たかひら三田
                同村中

解説:銀山~大原野道
文政二年(1819)の大乗妙典遍国供養の人並んで立っている。
諸国を遍歴する出雲州大原郷出身の行者、嘉右ヱ門を世話した長谷の村民が立てたものであろう。

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道標78に行く手前の池の端にある。これは道の分岐点にあってわかりやすい。

道標80
所在地:大原野字茶谷

正:  右 高平さそり
    高眼阿闍梨
     左 三田ありま

解説: 銀山~大原野道
道標81の東側の三差路角にあったものを移したものである。
阿闍梨は師範たるべき高僧の称号である。 

周辺を探してみたけど見つけることが出来なかった。
ここも新しい道ができていて資料作成時から現況が変わってる。

道標81
所在地:大原野字茶谷

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正: 右ぎんざんいけた  みち
       能せあたこ

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解説: 銀山~大原野
民家の石垣に取り込まれており、注意して見ないと見おとすものである。

これは意外と見つけにくかった。この辺りを何度も行き来して、資料をもう一度読んで、「民家の生垣になってる」というのを見てやっと見つけることができた。

道標82
所在地:大原野字岡田

正: 右 さそりむつのせ
    西国三拾三所供養
   左 はず川

右: 寛政四壬子年

解説: 木器道
(寛政四年=1792年)
道標77と同様に西国観音霊場三十三カ所巡礼を無事終えたことに対して立てられたものである。
正面左下の表面が剥離している。

すでに不明か。これは散歩ガイドの方でも紹介されてる道標で、見当たらないようなので先生に聞いたら、やはり工事でどこかに行ってるようだ、という話でした。

道標83
所在地:大原野字紙屋

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正: 右池田伊丹
   左多田院妙見

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右: 南無阿弥陀佛

左: 文化十癸酉天九月日

背: 俗名常盤山吉右衛門(カ)
   太機活用禅定門

解説: 波豆~大原野~銀山への街道、大原野の分岐点にある。
(文化十年=1813年)
「常盤山」は関取の四股名で、彼の供養のために造立したものである。
「天」は「年」の意である。

西谷小学校の南の道を西に行った突きあたり手前。西谷農協前から千刈水源地への抜け道途中の交差点にある。道路元標と並んでるのですぐにわかる。

道標84
所在地:波豆大畑 ドライブイン千刈

正: 右清水 道
   左三田

右: すく妙見 石田
          元右衛門

左: 文久三亥年
     右妙見道

背: 左三田道

解説: (文久三年=1863年)
さびた姿の自然石に流麗な文字が刻まれている。自然石で背面等四面に刻んである珍しいものである。

まだドライブインに行けてない。

道標85
所在地:波豆字向井山 岩ヶ鼻の手前
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正: 延享二乙丑年八月
           施主
            麹屋
   奉大峯山三十三度供養
            庄右エ門
    左 京あたご

解説: 旧三田街道
(延享二年=1745年)
大原野から現在千刈水源地に沈んでいる波豆村を通り山を越えて三田に向かう街道に立つ。
上部に「不動明王」を示す梵字を刻む。
大峯山での修行満願を報恩して立てたものであろうか。

Img_1844
千刈水源地を普明寺の方へ渡り、普明寺の入り口を過ぎて民家の間の農道を抜けていくと画像の場所に出ます。先に見えてる森の中に入った左側に道標が立っている。大きい道標なのでわかると思います。

道標86
所在地:波豆字向井山
Img_1836

正: 地蔵 右 三田村
        左 在所也

解説: 旧三田街道
道標85のすぐ西にひっそりと立っている。
「地蔵」と文字表現している点が珍しい。下部は埋もれている。

道標85を正面に見て右へ向いたところにある。木に挟まれて埋もれてるのでわかりにくいです。資料の画像では”右三田”まで見えてますが、現在は”地蔵”の下は埋もれていました。

道標87
所在地:大原野字松尾

正: 右 いけだ
      いたみ

右: 左 ぎんざん
      た々能ゐん

左: 施主 石や
        作兵衛(カ)

解説: 大原野~木器の間道
「右」の字上部に「地蔵」を示す梵字が刻まれている。台石の上に立っていたが下部が欠損している。
少年自然の家の北方、木器より山越えで西谷へ入った分岐点にあった。
現存しない。

道標88
所在地:下佐曽利字西川

正: 花屋妙香信女

右: 右 三田有馬 道
   左 中山伊丹

左: 施主松田宇平
   娘俗名せう

解説: 「松田宇平」が娘「せう」の供養の為に建立したものである。
現在の位置は、原位置から移動している。

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資料の地図位置ではこのような祠とお墓があるんだけど、お地蔵さんと台座の道標はない。
こことは違うのかな。

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先生にこの画像を見ていただきましたが、これで間違いないようです。
土台だけが残っていて道標とお地蔵さんは行方不明!


88img_1103
少し南にこれがあるけど、これも道標とは違う様子。
どこにあるのかな?
これは違うようです。

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資料の道標と似てるが書かれてる文字が違う。

道路元標[A]
所在地:小林1丁目4

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正: 良元村道路元標

解説: 旧武庫郡良元村
道路元標は大正八年の道路法施行令によって「各市町村ニ一箇ヲ置ク」と定められ、翌九年には兵庫県告示第229令で県下425基の設置場所が決められた。
設置場所は市町村の主要道路との交差点か三叉路のあたるが、市内に現存するものはいずれもその位置が若干移動しているものと思われる。

小林会館の入り口にあります。

道路元標[B]
所在地:泉町1丁目

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正: 小濱村道路元標

解説: 旧川辺郡小浜村
道路元標の様式は大正十一年の内務省令第20号により幅25cm四方、高さ60cm、形態は頭部がアーチ型と定められた。
旧武庫郡の道路元標は省令通りの形態であるが、旧川辺郡のものは頭部が三角形に尖っている。


中国道宝塚インターの北側の道、小浜と米谷への分岐点。

道路元標[C]
所在地:中山寺2丁目

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正: 長尾村道(路元標)

解説:旧川辺郡長尾村
旧川辺郡内の他村の道路元標を調べてみると川西村(現、川西市)、中谷村(現、猪名川町)のものは宝塚市域の3本と同形態である。なぜ旧川辺郡の形態が内務省令の規定と異なるのかは明らかでない。

Cimg_1748c
中山寺の山門を西へ行ったすぐ、トイレの前です。

道路元標[D]
所在地:大野原字紙屋

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正: 西谷村道路元標

解説: 旧川辺郡西谷村
阪神間において旧村全部の道路元標が遺存しているのは宝塚市のみである。近世の交通資料である道標とともに近代以降における交通を知る手がかりとして貴重なものである。

Dimg_2082
道標83と並んで立っている。

2014年8月16日 (土)

【宝塚】たからづかの道標その参

たからづかの道標 その参です。

本文の解説を青文字、僕の説明は黒文字で表示します。

以前の記事は下のリンクからどうぞ。

たからづかの道標その壱 

たからづかの道標その弐

たからづかの道標その四

グーグルマップも参考にどうぞ。

道標37
所在地:平井2丁目3

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正:大阪  御瀧講  世話人
37img_0808
右:最明寺     同松田
   是ヨリ八丁  中
            同魚岩

37img_0809
左: 京町堀   梶戸金
     同    八百福
     同    大 徳

解説:巡礼街道から丹波街道の分岐点、最明寺滝への入り口にある。
鎌倉幕府5代執権北条時頼は出家し鎌倉山内の別邸最明寺に退いた。彼が諸国を遍歴した折に宝塚の当地も訪れたことから、この地は時頼の別名「最明寺入道」にちなんで「最明寺」と名づけられた。

この道標も探すのに苦労した。巡礼街道と丹波街道の分岐点が分りにくかった。
丹波街道はこのすごく細い道です。しかも現場は民家の敷地内に見える。
阪急山本駅北側の道を東へ、一方通行の道から踏切に出る手前。

道標38
所在地:平井2丁目3

38img_0811
正: □□享三丙年
   中山寺道□也
         □八丁

解説:(貞享三年=1686年)
No.37の道標の東隣に横倒しとなっている。
昭和46年7月に確認された。
年号の上部に「地蔵」を表す梵字が彫られているようである。

37img_0810
画像のように敷地の外溝に埋まってる。磨滅して字は見えない。

道標39
所在地:平井2丁目16 大宝寺門前

39img_0819
解説:巡礼街道から満願寺方面へ分岐するところにあったものであろう。
左側面に戒名を刻み、供養塔の意味も兼ねている。
小祠の中に安置されている。

39img_0816
正:みき
    満願寺
   すく
    中山寺

左:  六親   妙体
     妙智  貞心
     妙三  栄□妙智
     六親  箕山□□
     箕山  貞心
     六親

39img_0818
道標38,39のところから丹波街道を行った先に大宝寺がある。祠の中なので横は見えない。

道標40
所在地:切畑字長尾山5 最明寺滝東

解説:丹波街道
平井山荘から満願寺へ向かう途中の山道東側にあり見つけ難い。
原位置は今より少し南の分岐点にあったと思われる。
深く彫られた梵字(阿弥陀如来)と共に優雅な筆跡の文字が美しい。
「満ん久アんじ」と漢字、平仮名、カタカナ混じりで表記している。

丹波道は歩いてみたけど探せなかった!
丹波街道は大宝寺から平井山荘の住宅街の東側を上がっていくと、民家の脇に山道に入っていくところがある。そこを抜けると道標41のところに出る。
探したところが間違ってたみたい。道標41の近くにあるのかな?

道標41
所在地:切畑字長尾山 不動橋北

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正: 右 満願寺多田
     左 たん者みち

41img_9790
左: 天保六年三月
     竹縁斎北社中建之

解説:丹波街道(天保六年=1835年)
昭和49年秋頃に谷に落ちていたのを、○○氏が発見し現地に引き上げたものである。
「竹縁斎北社中」とはどのような内容の団体であるかは明らかでない。
「たん者」は「丹波」の意味である。

最明寺滝の山道で満願寺に登っていくと、道が平坦になったところにある。

道標42
所在地:切畑字長尾山
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正: 不動明王参道

解説:丹波街道から最明寺滝への分岐点より、満願寺参道前までに同一形態のものがこれの外にもあり、計7本、ほぼ同間隔で立っている。

この道標は道標41から満願寺寄りにちょっといったところのものです。7本あるということですが他のものはまだ確認してない。

道標43
所在地:山本東1丁目2 木接太夫碑前

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正: 右中山道

右:   施主池田売を徳

左:   釋尼妙真信女

解説: 巡礼街道
池田の「売を徳」なる人物が、娘か妻かわからないが供養の意味を兼ねて立てたものである。

山本駅の北側、巡礼街道を中山寺の方へ行ったすぐ。大きな木接太夫碑のところ。

道標44
所在地:山本東2丁目4 

解説:山本の集落内の里道分岐点にある。
表面を粗いままにして、重厚な文字が刻まれている。

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ここだと思うんだけど道標は見当たらない!?
場所はここであってる模様。

道標45
所在地:山本東1丁目3

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正: 右さい所?
    左み能お

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左:  施主大阪住吉

背: 左池田

解説:巡礼街道
場所を移動したものか、方向が一致していない。
下部が深く埋もれている。
「み能お」は「箕面」のことである。

山本から中山寺への巡礼街道途中にある。移動してる可能性とのことなので元位置はどこか。

道標46
所在地:山本東1丁目4

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正:  右
     中山
    右中山

解説:巡礼街道
地蔵を表す梵字が彫られている。
「右中山」と二行に並べて刻むが、左行の刻字が比較的はっきりしていることから後で新たに彫りなおしたものと考えられる。


道標45の西向かいにある。

道標47
所在地:山本東1丁目4

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正: 右 中山
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右:願主 池田槻木町丹波屋源七
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背:  右 満願寺柳谷観音
    六拾六部七百五十人報謝宿
    左 中山寺       供養塚

左: 安永七戊戌歳十二月

解説:巡礼街道(安永七年=1778年)
六拾六部とは諸国を遍歴する修行者の一種で、これらの人を無料で宿泊させて布施する宿があった。
これはその数が750名に達した記念に宿が立てたものである。
「歳」は「年」の意である。

道標46から巡礼街道を中山寺方面に。松尾神社参道の角。

道標48
所在地:山本台1丁目 正念寺東門前

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正: すぐ中山道
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右: みぎ常念佛道
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左: 施主池田之住坂上氏

背:   右ハ山本常念仏寺之道
    南無大慈観世音菩薩
      左ハ中山道是ヨリ一リ

解説:巡礼街道
明治初年、この地へ正念寺が移築され常念仏寺と合体し正念寺となっている。
元の道標は原位置より南にあったもので、この正念寺東門前に移され現在に到っている。

正念寺さんの入り口のところ。
山本園芸流通センターの西向かい、巡礼街道沿い。

道標49
所在地:山本台1丁目 正念寺内

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正: 延享四卯十二月
    如月志やふ信女
    左中山是よ里六丁 

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解説:巡礼街道(延享四年=1747年)
今は正念寺の墓地へ移されているが、元は、中山寺より六丁の地点すなわち天神川右岸の巡礼街道沿いに立っていたのであろう。
美しい石仏の台石を兼ねている。

正念寺さんの墓地内ということでお寺さんに声かけをして探しました。資料の画像では擁壁のところにあるので壁沿いを探したが発見できず、あきらめて帰ろうかと本堂前まで戻ってきて発見!墓地の入り口に移設されたようです。

道標50
所在地:中筋山手4丁目 しだれ桜横

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正:す久中山寺道
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左: 左ざい所道
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右:  宝暦三癸酉歳二月施主中□□
                    水□□

解説:巡礼街道(宝暦三年=1753年)
昭和59年1月、近くの妙玄寺、法界内の柱横にあったのを○○氏と○○氏が見つけたもので、下部を欠損している。
左の「ざい所道」は「村内の道」の事である。

資料制作時点では個人宅の庭に保存されていたようですが現在は中筋のしだれ桜の横に移設してあります。中山桜台へ登っていく道沿いです。元位置はどこか。
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道標51
所在地:中山寺山門前

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右:安政二年     花山院講元
  乙卯五月 大阪  大川屋由兵衛

正:  西国巡礼御ゑい可能元祖
     菩提寺
    右 花山院道 五里半
       清水に通りぬけちか道あり

左:   ありまふしもと能きりを
       海とみてなみかときけば
         小野乃まつかぜ

解説:巡礼街道(安政二年=1855年)
花山院(三田市)および清水寺(西国25番札所)への方向を示す。五里半は約22kmにあたる。
左側面に西国巡礼御詠歌を流麗な字体で刻んでいる。

中山寺の山門の南側にあります。

道標52
所在地:中山寺山門前

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正: 日本第一 清荒神王道十二丁

右:西宮清水小濱
  西宮大坂通ぬけ 江戸深川講中

背:天保十二年辛丑三月すぐ京池田
                   伊丹

解説:巡礼街道(天保十二年=1841年)
「日本第一清荒神」と広く一般に信仰されていたが、本道標に見られるように江戸深川と関東方面にまでその名が知られていたことがうかがえて興味深い。

道標53
所在地:中山寺2丁目4 山門西

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正:左り 寶塚  道
       清荒神

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左: 施主大阪港区南安治川二丁目
          中村重三郎

解説:巡礼街道
中山寺山門を過ぎて少し西へ行った分岐点にある。
古く見えるが、大阪港区とあらわしていることから、比較的新しいものである。

資料では「分岐点」となってるが、今は南側の駐車場の中にある。元は分岐点にあったが道路拡張でここへ移設したようです。

道標54
所在地:売布4丁目3 民家内

正: 右中山道

左: なだ
     若林嘉兵衛

背: 左荒神道

解説:巡礼街道沿いにあったものが移動したものと思われる。
「若林嘉兵衛」の手によって幕末の頃売布神社から清荒神の間の近道に10本の道標が建立された。
これはそのうち内の1本であり、現在この他に6本が確認されている。

ここは民家の中にあるようなので確認できてない。

道標55
所在地:売布3丁目15

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正: 日本第一 清荒神霊社
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右: 施主 大坂住
          橘徳兵衛

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左: これよ里にしへきよし
   くわう志ん道□けあり

背: 清澄寺政尊代

解説:巡礼街道
売布神社東方から清荒神への近道分岐点にある。
「きよしくわう志ん」とは「清荒神」のことであるが「志(に濁点)」という表記は珍しいもので、このほかに道標73にも使用されている。

阪急の売布神社の駅から上に上がり巡礼街道に出て左に曲がったところ。

道標56
所在地:売布3丁目15

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正: すく清水
      寶塚

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背: すく中山
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左: 右 荒神道
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右: なだ
     若林嘉兵衛

解説:巡礼街道
道標55の左隣に立っている。
これも「若林嘉兵衛」によって立てられたものの一つである。
風化がはげしい。「すく」は「まっすぐ」の意味である。

道標55のすぐ横。

道標57
所在地:清荒神2丁目16

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正: すく中山道

背: すくきよ水ありま

右:      於講

解説:巡礼街道
流麗な文字と共に、すらりとした感じを受ける道標であるが、下端40cm程で折れて補修が施されているのは惜しまれる。

売布小学校の下の巡礼街道を西に行き橋本関雪邸を過ぎた次の辻を右に曲がったところ。画像のように生垣に埋もれてるので正面以外は見えない。

道標58
所在地:清荒神2丁目18

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左: すく中山道
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正:  願主
      若林嘉兵衛

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右: 右 荒神道

解説:巡礼街道
この道標に従い角を右へ進むと、同じく若林嘉兵衛の手になる道標72の辻に出る。

道標57から巡礼街道を西へ行きため池を過ぎた辻。

道標59
所在地:中山寺華蔵院庭内

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正:      永正十四丁卯
    六丁山城国□□□□石大工 春政
         八月十八日

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背: 右ハきよ水
    左ハひやうご 道

右: 建主椙本坊祐慶

左: 天和三年十一月十八日

解説:宝塚市指定文化財
永正十四年(1517年)の建立で中山寺参道に建てられた丁石であるが背面の追銘によって天和三年(1683)以降道標として再使用されたことがわかる。その後里道の橋に転用されていたのを現在位置に移し保存されている。
正面上部に阿弥陀如来、背面上部に地蔵を示す梵字がそれぞれ彫られている。

この道標はガイドマップの時に探すのを苦労した。中山寺の山門を入り参道の右側のお寺の華蔵院に入ったところにある。
2016年に見たら、市の説明板がきれいになってた。

道標60
所在地:中山寺梅林内

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右: すく 伊丹池田 道
       箕面

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背: なだ
     若林嘉兵衛

正: すく荒神花山院 道
     左 西宮中山

左: 観世音菩薩
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解説:巡礼街道沿いにあったものを中山寺境内に移して保存していたが、梅林造園に際して現在地へ移された。
旧位置は全くわかっていない。

中山寺梅林の公園の中にありました。
いま画像で見て見たら、正面、右、左の説明がちょっと違う気がする。
現在は生垣に埋もれて全部見えないからちょっと確認しにくい。

道標61
所在地:中山寺信徒会館前庭

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正: 常夜燈
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左: 右大坂
   左中山寺  八丁

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背: 安政四丁巳年六月建之

右: 南無阿弥陀佛

解説:安政四年=1857年
もと有馬街道小浜の東口、谷池の畔にあったものを現在地へ移したものである。
施主として、岡山、和泉、堺、大坂の有名人や地元小浜の有力者名が台座に連記されている。

中山寺の信徒会館休憩所の前の広場にあります。

道標62
所在地:中山寺信徒館西

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正: すくおくのゐん道 是より
                十八丁

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左: 世話人大坂傘講
        大和屋与八

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右:    教岸
    繹 妙煩  霊位
      妙正

解説:奥の院への出入り口左側に立っている。
大和屋与八が教岸、妙煩、妙正の供養を兼ねて建立したものである。
刻印のなかに後日、墨入れを行っている。


信徒会館の西側、梅林と奥の院に向かう入り口です。

道標63
所在地:中山寺信徒館西


右: 宿坊寶蔵院

正: 左本山道是ヨリ十八町

左: 享保十九甲虎十二月
    施主 辰巳休海

解説:享保十九年=1734年
奥の院への出入り口右側に立っている。
刻印のなかに後日、墨入れを行っている。

63img_0879
道標62のすぐ上のこの場所だと思うのですが見当たらない。ここに新しい施設を作ってるようなのでその時にどこかに移設したのかな。
中山寺さんでお聞きしたんですがまだ解決せず。

道標64
所在地:中山寺墓地北西

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正: 壹丁

右: 宿坊寶蔵院

左: 享保十九甲虎年十二月
      施主 辰巳休海

64img_0874
解説:享保十九年=1734年
道標63から奥の院へ向かう山道に一丁おきに立っている丁石であり、同時期に同一人物の手によって十八丁分全てが建立されている。
塩尾寺、清荒神等にも丁石は残されているが、これほど完備して現存しているのは中山寺奥の院の丁石のみであり貴重なものである。

この丁石は奥の院までちゃんと十八本ありますね。
道標62のところから梅林の入り口を過ぎたすぐ。

道標65
所在地:中山荘園3

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正: 貮丁
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右: 宿坊寶蔵院

左: 享保十九甲虎年十二月
     施主辰巳休海

解説: 享保十九年=1734年
足洗川を渡った四差路角に立つ。
道標64の丁石と同一形態のもので奥の院まで三丁、四丁・・・と正確に揃っている。
以下のものは省略する。

資料は三丁以下を省略ですが十八丁まで行きましょう。
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三丁

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四丁
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五丁
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六丁
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七丁
Img_1321
八丁
Img_1323
九丁
Img_1324
十丁
Img_1328
十一丁
Img_1330
十二丁
Img_1331
十三丁
Img_1334
十四丁
Img_1336
十五丁
Img_1338
十六丁
Img_1340
十七丁
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十八丁


道標66
所在地:中山荘園4

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正: 左本山道

右: 宿坊寶蔵院

左: 享保十九甲虎年十一月
     施主 辰巳

解説: 享保十九年=1734年
奥の院への二丁石と三丁石の中間わき道の分岐点にある。
前記の丁石より、ひと月前に建立されたものである。

解説の通り二丁と三丁の間にあるので注意してれば見つかります。

2017年5月
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