歴史関係

2016年9月13日 (火)

各地の道標1

道路端や公園内に移設されてる道標を見つけたら写真を撮ってます。
それらの道標を紹介していきましょう。
Img_2131
西国薬師霊場第四十六番札所 桑實寺にあった道標。
Img_2129
これも桑實寺にあったもの。
Img_2136
これも桑實寺にあったもの。

伊丹市 道標

伊丹市内にある道標を紹介していきます。
Img_2005
Img_2006
稲野村道路元標
昆陽3丁目旧西国街道沿い
Img_2009
Img_2010
Img_2011
Img_2012
西国街道の道標
稲野小学校前

2016年4月 9日 (土)

朝鮮通信使紀行 杉洋子

朝鮮通信使紀行 杉洋子

仲尾先生の朝鮮通信使ではかなり偏った印象だったので違う方の朝鮮通信使の本を読んでみました。

この杉氏の朝鮮通信使紀行は読売新聞で連載された記事をまとめたものです。

紀行となってますがまさに杉氏が朝鮮通信使がたどった道のりをなぞるように旅をして、現地で今も残る通信使の史跡や話題、そしてその場所にまつわる当時の朝鮮通信使にまつわる出来事を紹介するという内容になってます。

新聞連載用の話なので、歴史的な細かい事実関係を追いかけるというより、朝鮮通信使が立ち寄った土地に関することを通信使を絡めて紹介する形なのですごく読みやすいです。

仲尾先生は朝鮮通信使が日本に多大な影響を与えたかのように書いていたし、朝鮮通信使は江戸幕府と対等な付き合いをしていたと言いたかったようですが、杉氏ははじめに朝鮮通信使の使命を「将軍職の就任祝いである」と書いている。
まあそういうことですよ。
前にも書きましたが、朝鮮通信使は江戸まで行ってるけど、日本側はプサンまでしか入れてない。これは杉氏も言ってるが、李氏朝鮮側が日本人に再び侵略されることを恐れてソウルまでの入国を拒否してるのであって、逆に日本側は江戸城まで迎え入れて朝鮮侵略の意思がないことを示してるし、朝鮮人に全部さらけ出しても朝鮮から侵略される恐れはない、と完全に国力の違いを見せてる証拠ではないかと思われます。

杉氏も朝鮮通信使が日本国内を通過するときに民衆かが見物に集まって今でも朝鮮踊りのような祭りが残ってる地域があるくらい大きな出来事だと書いている。
確かに通信使が通る町ではものすごい人が見物に訪れたようですが、それは今で言うところの万国博覧会を見に行くくらいの物珍しさからだと思う。

だから江戸時代の人にとって外国使節を見る機会なんて一生に一度あるかないかというすごい出来事だということはわかるけど、それが日本の庶民や江戸幕府に多大な影響を与えたという意味とは違うと思う。

それでも鎖国政策を取っていた江戸幕府にとって、長崎でオランダ、中国を通しての世界情勢を知る手段と同じように朝鮮通信使を通しての外国情勢分析という意味は少なからずあったのでしょう。

しかしこの本では、日本側の朝鮮通信使に対する過剰な接待ぶりが描かれてますが、このことの意味は、江戸幕府が朝鮮に対しての日本の圧倒的な繁栄ぶりを見せつけるということもあったのではないかな。ものすごい接待で国力を見せ付けて、日本侵略を考えさせない。これは中国の冊法体制をまねて江戸幕府が李氏朝鮮に対して行っていたということじゃないのかな。

今の日韓関係と朝鮮通信使は直接は関係ないですが、日本と朝鮮半島の歴史において、江戸時代は李氏朝鮮が幕府の代替わりに毎度毎度挨拶に来ていたという歴史は知っておいてもいいでしょう。

2015年1月21日 (水)

箸墓以降

箸墓以降

-邪馬台国連合から初期ヤマト政権へ-

近つ飛鳥博物館で平成二十六年秋に行われた特別展でございます。

やっとパンフレット読み終えた。

箸墓古墳に始まる古墳時代前期の約一世紀の畿内の大型古墳について詳しく検証していますね。

学問とはとにかく定義付けが大事みたいですね。ある言葉で表現する物がなんであるのか、ということが解らないと先に進めない。

素人のただの古代史好きにとっては「古墳」とは「古い時代の大きいお墓」くらいの認識の人が多いように思いますが、初期古墳を語る今回の特別展ではそこははっきり「古墳とは何か」を定義しておかないといけないようです。

そうすると「古墳」は「古墳時代の定型化された様式の物」というようなことのようですね。

だから岡山の楯築古墳は厳密には箸墓に先行するということで墳丘墓とするんですね。難しいです。

ヤマト政権の初期3世紀中ごろから4世紀の中ごろまでの巨大古墳は奈良盆地南東部の天理から桜井にかけて、山の辺の道あたりに集中する。
奈良盆地北側や盆地の他のところの古墳は時代が新しくなるので今回は取り上げていない。
その代わり淀川水系の北河内と三島、山城の大型古墳を取り上げます。
北河内は交野市枚方市あたり、三島は高槻、山城は向日市あたりですね。

初期巨大古墳の造営の順としては、箸墓古墳ー西殿塚古墳ー桜井茶臼山古墳ーメスリ山古墳ー行燈山古墳ー渋谷向山古墳と想定されてるようです。
しかし宮内庁の管理でしっかりした発掘調査がされてないのは残念ですね。
もうちょっと詳しく調査するだけで、造営順や想定被葬者が変ったりというような結果が出る可能性もあるけど、それが考古学の面白い、謎の部分でもあります。

初期古墳の大和川水系では、この盆地南東部だけに古墳があるということで、初期ヤマト政権は大和川水系の一帯には強力な支配権を及ぼしていたということが想定されるようです。
その反対に、同時期に北河内、三島、山城には大型古墳が存在するということは、大きな勢力がその地域にあったけど、ヤマト政権の支配下ではなかった、そして大きな「古墳」を作れたということで、何らかの連合関係にはあった、ということなんでしょうか。

副葬品は鏡とか玉、石製品が多いのかな。必ず武器が大量にでるということではないということは、それほどクニグニの争いは無い時代だったのか、比較的友好的に連合を結んでいたのかな。

しかしこの三島は5世紀になると継体天皇陵があって、「王」を出すような地域になるので継続して大きな勢力を持っていたのでしょうね。

とにかくこの時代はまだ日本列島に文献資料というのが無いので、考古学的な調査から想像するしかないのが面白い。

そして朝鮮半島と大陸の情勢のことが最後に書かれたましたが、鉄の流通など半島情勢の歴史をもっと知っておかないと日本の古代史は理解が進まないなと思いました。

あと土器、埴輪の形式論で、二重口縁壺を詳しく検討されていましたが、素人にはまったく解らない。
細かく分類することで、土器埴輪の工房とかの違いが出るのかな。
ちょっとした形式の違いで時代の前後関係が出るわけですが、作ってる人のきまぐれでちょっと形を変えて作ってみた、というような古代人の気ままな製作過程があったりしたら、どうなんだろうと素人考えで思ってしまった。

2015年1月10日 (土)

出雲と大和

出雲と大和   村井 康彦

-----古代国家の原像をたずねて

この本では、主に神社に祭られてる神様を追いかけることで、出雲と大和の関係を見ていこうとしています。読んでいて、前にも読んだかも?と思いましたが、なぜか出雲のことは気になります。

出雲の神様の代表格はやはり大国主神ですね。出雲神話の中で活躍しますが、名前がいくつもある。名前は変わっても、大国主神にすべてをつなげていくのはだいたいどの研究者の方もそうですね。ぼくもとりあえずそれで進めてもいいのではないかと思う。神話の中の出来事ですしね。

神社には祭神が祀ってあるわけですが、古い形態として、山や岩を祭神としてまつることがありますね。大和の大神神社が三輪山を祭神としてるのが有名です。
この本でもまず大神神社の三輪山と大国主、出雲の関係から入り、岩を祭神とする古い神社を訪ねます。

そのなかで、出雲と大和の間になる、丹波の国亀岡にある出雲大神宮が紹介されてる。ここはまだ行ったことがないし、わりと近いところなのでいつか行ってみようと思いますね。
そして出雲周辺と日本海側の出雲神をまつる神社を紹介し、出雲との関係を探る。

出雲の日本海側への影響を見るのに、四隅突出型墳丘墓も紹介されます。
これも古墳といえば前方後円墳が代表ですが、それとは明らかに違う形の墳丘墓が出雲から日本海側の富山県あたりまで存在するようなので、その特異な形から出雲と日本海側のクニグニには何らかの連携関係があったものとみる方がいいように思いますね。

賀茂、鴨神神社の系統も出てきます。
鴨神社といえば京都が有名ですが、大和の葛城地方にも鴨系の神社があるんですね。この本では、出雲系の鴨神社が古代から大和に影響力を持っていたが、長岡、平安と京都側に遷都してからは、京都の賀茂神社が強くなり、奈良の影響力は小さくなったということのようです。

この手の推論を基にしていく話は、神社、祭神、地名等の名前の共通点を比べたり、近い発音のものを強引に結びつけたりということの連続で、話を進めていくので、読みにくいのと、なかなか頭に入っていかないです。

しかし、こういう地道な検証作業をすることで見えてくることもあるだろうし、意外な発見もあるので面白い面もありますね。

2014年11月29日 (土)

大古事記展

大古事記展

古代史が好きで、古事記は三浦先生の「口語訳 古事記」を持っております。

古事記の展覧会ということで、どんな展示があるのかよく解りませんでしたが、以前から見たかった石上神宮の「七支刀」の本物展示があるということで、行ってまいりました。

今回の会場は奈良県立美術館。
歴史博物館にはちょこちょこ行ってますが、美術館はほとんど行かない。現地に着いてから美術館で何をするんだろと思ってしまった。

大古事記展の冊子によりますと、古事記の世界観を表した絵画や古社の宝物、考古資料の展示会ということです。

入ってすぐになるほどそういうことかと納得した。

はじめの展示は「イザナギ、イザナミの木像」から始まります。
そして次に江戸期や明治、大正、昭和の絵師による古事記を題材にした絵画が展示されていました。

そして今に伝わる「古事記」のいろいろな写本の原本展示。古事記の原本は出雲の博物館で見て以来でしたが、今回は江戸時代から盛んになる古事記の研究書もいろいろ紹介されてました。

問題の「七支刀」はじっくり見ることができました。
これは4世紀から伝わるということなんですね。
4世紀にこの七支刀が作られていたことが驚きですね。
原品はもちろん錆びていてるわけですが、やはり本物は迫力があり、この七支刀が見れただけでもこの展示会は価値がありましたね。

下に降りた展示スペースは現代美術だったので、古事記とは関係ない常設展か?と持ってしまったけど、これも大古事記展でした。

美術館での開催らしく、最後は現代の芸術家による古事記に関する作品の展示でした。
しかし元々美術的なものに対する理解力にかけている自分としては、現代芸術家の古事記解釈を理解できることは無かったです。

2014年5月 5日 (月)

正倉院展

毎年秋に奈良国立博物館で行われている展示会です。

去年二十五年の正倉院展に行ったことを書こうと思っていたらもう、春になっていた・・・

いままで三回ほど見に行きましたが、歴史好きな人や日本の伝統なんかに興味のある人は一度は見に行くといいでしょうね。

何しろ千二百年以上前の物が、保存されていて、今現在、当時の物がそのまま見れるということはすごいことだと思うからです。
しかも聖武天皇をはじめとする皇室の宝物ですから、当時の最新の、最高の技術で作られたものです。それに、文書資料も豊富で、古文書は読めないのですが、それでも”光明皇后”など歴史上の人物の名前をその中に見つけることが出来たりして、まさに歴史に触れた気分になります。

こういう展覧会で、今につながる日本の歴史というものを見ると、日本という国は伝統的でなすごい国だということを感じることができますね。

二十三年度のパンフレットの解説を見ると、明治以降は戦争時に避難させたり、正倉院のそばにコンクリート製の新しい建物を建てて、宝物を保存したりしてるのですね。

正倉院展は非常に人気があるようで、全国からツアーで来てるの人もあるのでしょうか、毎回入場するのに長蛇の列ができていて、大変ですが現地で実物を見ることはすばらしいことだと思うので、一度は皆さんも行かれるといいと思いますよ。

2013年4月25日 (木)

古市古墳群と百舌鳥古墳群

4世紀~5世紀の大阪にある巨大古墳群、古市古墳群と百舌鳥古墳群は大和川の河口付近にあります。
最近は両古墳群を一体で世界遺産にと盛り上げようとしていますね。

古市古墳群の中で中心的な古墳は応神天皇陵、百舌鳥古墳群は皆さんもご存知仁徳天皇陵であります。

両古墳群は地形的には東西に並んでいる形になってますね。

さぁここで僕が最近気になったのはなぜ古市古墳群は羽曳野あたりで、百舌鳥古墳群はそこから西に行った堺に位置しているか、ということです。

現在の地形、大阪平野の上で見ると内陸にあるように見えます。
しかし古代の大阪平野は縄文海進によるのか、大阪湾は上町台地を残していまの大阪市東部や東大阪、八尾あたりまで海だったのですよね。
これと両古墳群の位置関係を最近考えるようになった。

仁徳天皇陵は大阪湾に近いので、ヤマトの玄関口に造られたということを言っておられる先生もいますが、古市古墳群では”ヤマトの玄関口”に造られてるという説は聞いたことがないんです。
では古市古墳群はなぜ東よりのあの場所に造られたのか?

僕がふと思いついたのは、古市古墳群もやはり造られたときは”ヤマトの玄関口”だったのではないのか?ということです。

大阪湾を入ってきて、淀川を上って、上町大地の東側をまだ船で進むことができた時代があった。
そうすると、現在の八尾市あたりが大和川の河口で、ちょうど羽曳野辺りがヤマトの玄関口だったのかな、なんてことを想像しています。

ヤマトの入り口に巨大古墳を造るのは、やはりこれだけ大きいものを作る力があるのだ、ということを見せるためではないかと思うので、そういう意味合いであの場所になったのかな。

はじめに書いたように大阪平野は現在の形とはぜんぜん違ったのです。
古市は大和川の河口で、ここから大阪湾に流れ込んでいたのです。
そうすると古市古墳群の時代はまだ淀川、上町台地の北側から東側に回りこんで、古市のあたりから大和川でヤマト入りしていたんではないのかな?と思った次第です。
その後大阪湾が引き上町台地から回りこめなくなったので、津守~住吉~堺方面に船つき場になったので、仁徳陵も堺側に移ってきたんではないでしょうか?

2013年2月 3日 (日)

【近つ飛鳥博物館】歴史発掘おおさか2012

近つ飛鳥博物館で行われている特別展、発掘されたおおさか2012に行ってきました。

大阪府内で近年発掘調査が行われた33か所ほどの調査地における発掘成果の速報的な展示です。
最新の発掘遺物の現物を展示してあるので良い企画展だと思います。
33か所が多いと思うか少ないと思うかはどちらともぼくには分らないですが、開発に伴い発掘調査できたところは運がいいのであって、何も調査せずに堅牢な建築物が開発によって出来てしまってるようなところはもう発掘調査もできないでしょうから、そういう場所があると思うとちょっと残念に思いますね。

さて今回の大阪府内の発掘成果は、縄文時代から昭和に至るまで幅広いです。
気になったのをいくつか書いてみます。

まずは東大阪の鬼虎川遺跡の多孔土器です。高さ約6センチのタコつぼのような、または製塩土器のような形をしてるのですが、下半分に小さな穴が51コもあけられています。解説を見てもどういう用途の土器であるか書いてませんし、ぼくも何に使われていたのか想像できません。

和泉市の府中遺跡では弥生時代から古墳時代にかけての土器が固まって発見されてます。
それらの土器の中には淡路島から来た器台型の土器があります。この器台型どきも変わった形をしてますね。何かを載せるように作ってあるのでしょうが、ぼくが面白いなと思ったのは末広がりになってる台部分に三角形の穴が開けられてるところですね。円筒埴輪なんかでも三角の穴が開けられたりしてますが、どういう意味があるのか知りたいです。淡路との交流ということでは大阪湾を直線的に船で行き来していたのでしょうか。
この遺跡のすぐ西側は池上曽根遺跡がありますね。

百舌鳥・古市古墳群では、陵墓指定されている古墳のすぐ横にある陪冢がいくつか発掘調査されています。もちろん陵墓は立ち入ることすらできないわけですから、すぐ横の陵墓と関係が深いと思われる古墳を発掘することで陵墓の時代等もちょっとは具体的に考えることができるようになるのかなと思いますね。何より発掘した陪冢自体の調査でその古墳のことが詳しく解るというのがいいですね。

それと今回は両古墳群のレーザー調査における成果の発表が行われてました。
これは百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議で、正確な古墳測量図を世界遺産一覧表登録推薦書に掲載する為に航空レーザー測量を行った、ということだそうです。新聞でもこのニュースは見ていたので興味がありました。
現在の古墳の状態は原生林のように古墳全体を木が覆っていて輪郭では前方後円墳だと分りますが、何段築成であるかや、詳しい形はまったく見えない状態ですね。
何百年も、いや千数百年も人がほとんど立ち入ってないのでほんとに原生林のような状態です、ぼくは以前、仁徳天皇陵の周壕でカワセミを見ましたよ!

レーザー測量では葉っぱを通り越して古墳の地形が10cmほどの間隔で測量ができるそうです。これがかなり精度がいいのでしょうね、古墳の現在の形がくっきりと見えます。
現在もものすごく形がいいまま残ってるのは、履中天皇陵とニサンザイ古墳ですね、ほんとにきれいな形を今に残しています。
仁徳天皇陵は上の方がぐちゃぐちゃに荒らされてる感じですね、明治時代にほっちゃってますからね~、応神天皇陵もほとんどがきれいに残ってますが、前方部の半分が崩れてしまってる様子がはっきり映ってます。
立ち入り調査ができない現状ではこれが精一杯なんでしょうが、本格的に調査する方向に早くなってほしいです。

この調査は世界文化遺産に登録申請する為に行ってるようですが、ぼくは世界遺産登録反対です。
あまり詳しくはないので間違ってるかもしれませんが、世界遺産に登録すると、”現状を後世にそのまま残す”ということを強いられると思うのですよ。そうすると古墳を覆っている木を切ることができなくなる!これでは調査すらできなくなるので宮内庁書陵部の思うつぼですよ。
もうひとつ、ぼくは現在の古墳の姿は、”古墳本来の姿ではないので今の状態での世界遺産申請には反対です。古墳ができた時の姿は石葺きで、木に覆われているわけではないのですよ。だからせめて古墳の中の発掘調査はしないまでも、古墳を覆っている木を取り払い、元のきれいな石葺きのきれいな姿にしてから世界遺産登録をしてほしい。

2012年12月23日 (日)

近つ飛鳥博物館

大阪にある府立近つ飛鳥博物館

前の知事さんはこんなもの要らんといってつぶしてしまいそうになってましたが・・・

特別展の時に行くようにしてます。アサヒメイトのカード提示で団体料金になります。

ちょっとだけ展示物の画像を

Img_0986
家型埴輪

Img_0989
きぬがさ型、靫型埴輪

Img_0991
鳥型埴輪

Img_0993
人型埴輪

Img_0994
武人埴輪

Img_0996

Img_0997
甲と鉄刀

もっと展示物はありますし、現地に行けばちゃんと説明文があります。

下には仁徳天皇陵の模型もあります。

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ