« ありがとう天六学舎2 | トップページ | 紀三井寺 »

2015年1月21日 (水)

箸墓以降

箸墓以降

-邪馬台国連合から初期ヤマト政権へ-

近つ飛鳥博物館で平成二十六年秋に行われた特別展でございます。

やっとパンフレット読み終えた。

箸墓古墳に始まる古墳時代前期の約一世紀の畿内の大型古墳について詳しく検証していますね。

学問とはとにかく定義付けが大事みたいですね。ある言葉で表現する物がなんであるのか、ということが解らないと先に進めない。

素人のただの古代史好きにとっては「古墳」とは「古い時代の大きいお墓」くらいの認識の人が多いように思いますが、初期古墳を語る今回の特別展ではそこははっきり「古墳とは何か」を定義しておかないといけないようです。

そうすると「古墳」は「古墳時代の定型化された様式の物」というようなことのようですね。

だから岡山の楯築古墳は厳密には箸墓に先行するということで墳丘墓とするんですね。難しいです。

ヤマト政権の初期3世紀中ごろから4世紀の中ごろまでの巨大古墳は奈良盆地南東部の天理から桜井にかけて、山の辺の道あたりに集中する。
奈良盆地北側や盆地の他のところの古墳は時代が新しくなるので今回は取り上げていない。
その代わり淀川水系の北河内と三島、山城の大型古墳を取り上げます。
北河内は交野市枚方市あたり、三島は高槻、山城は向日市あたりですね。

初期巨大古墳の造営の順としては、箸墓古墳ー西殿塚古墳ー桜井茶臼山古墳ーメスリ山古墳ー行燈山古墳ー渋谷向山古墳と想定されてるようです。
しかし宮内庁の管理でしっかりした発掘調査がされてないのは残念ですね。
もうちょっと詳しく調査するだけで、造営順や想定被葬者が変ったりというような結果が出る可能性もあるけど、それが考古学の面白い、謎の部分でもあります。

初期古墳の大和川水系では、この盆地南東部だけに古墳があるということで、初期ヤマト政権は大和川水系の一帯には強力な支配権を及ぼしていたということが想定されるようです。
その反対に、同時期に北河内、三島、山城には大型古墳が存在するということは、大きな勢力がその地域にあったけど、ヤマト政権の支配下ではなかった、そして大きな「古墳」を作れたということで、何らかの連合関係にはあった、ということなんでしょうか。

副葬品は鏡とか玉、石製品が多いのかな。必ず武器が大量にでるということではないということは、それほどクニグニの争いは無い時代だったのか、比較的友好的に連合を結んでいたのかな。

しかしこの三島は5世紀になると継体天皇陵があって、「王」を出すような地域になるので継続して大きな勢力を持っていたのでしょうね。

とにかくこの時代はまだ日本列島に文献資料というのが無いので、考古学的な調査から想像するしかないのが面白い。

そして朝鮮半島と大陸の情勢のことが最後に書かれたましたが、鉄の流通など半島情勢の歴史をもっと知っておかないと日本の古代史は理解が進まないなと思いました。

あと土器、埴輪の形式論で、二重口縁壺を詳しく検討されていましたが、素人にはまったく解らない。
細かく分類することで、土器埴輪の工房とかの違いが出るのかな。
ちょっとした形式の違いで時代の前後関係が出るわけですが、作ってる人のきまぐれでちょっと形を変えて作ってみた、というような古代人の気ままな製作過程があったりしたら、どうなんだろうと素人考えで思ってしまった。

« ありがとう天六学舎2 | トップページ | 紀三井寺 »

歴史関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/582317/61010735

この記事へのトラックバック一覧です: 箸墓以降:

« ありがとう天六学舎2 | トップページ | 紀三井寺 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ