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2014年8月 2日 (土)

【宝塚】たからづかの道標その弐

たからづかの道標 その弐であります。

グーグルマップにポイントを落としてありますのでどうぞ。

宝塚市の資料をもとに市内の道標を紹介してますが、92本と多いので、記事は何回かにわけて行こうと思います。

その壱

その参

その四

解説書の説明は青文字で、僕の説明は黒文字です。

道標25
所在地:湯本町11

25img_0938
正: 左塩尾寺
      是ヨリ十五丁

背: 大正元年十一月
     大阪材木商泉平

26img_0204
解説: 塩尾寺参道(大正元年=1912年)
県道西宮~生瀬線から西へ分岐して少し行った右側にNo26の道標と並んで立つ。
もとは、2本とも県道との分岐点に立っていたものであろう。

宝来橋を西にわたるとつきあたりみたいになりますが、ちょっと右に細い道があり、そこを上ったところにあります。画像のように2本並んでる。

道標26
所在地:湯本町11

26img_0939
正: 六甲山  十一面観世音
   塩尾寺        すぐ十五丁

右: 大阪  観栄講
          発起人田中

26img_0940
左:   厄神明王

背: 明治三十二年九月  建之石工摂
                 本丁

解説:(明治三十二年=1899年)
「すぐ」とは「まっすぐ」の意味である。
正面右上部が欠損している。
塩尾寺の参道はNO.23の道標から来る道筋と、NO.25,26の道標前の道筋と2本があり、紅葉ヶ丘で合流する。

道標27
在地:月見山1丁目5 現在不明

解説: 塩尾寺参道
昭和46年ごろの文化財研究会撮影のスライドにはNo28,29の道標と同地点にこの道標が写っているが、現在これだけが紛失している。
おそらく河川改修工事、ガードレール取り付け等の為に昭和46年以降に行方不明になったものであろう。法量等詳細は不明である。

道標28
所在地:月見山1丁目5

28img_0053
正: 宝塚大黒

解説: 塩尾寺参道
月見橋を渡った左側にNo29の道標と並び同一場所にある。
「大」の字から下は埋もれている。

資料制作後に建て替えられてるようでちゃんと直立しています。解説では下の「黒」が見えなかったようですが現在はちゃんと「寶塚大黒」と読めます。

道標29
所在地:月見山1丁目5

28img_0942
正: 寶塚不動尊
29img_0943
右: 丙子
     三月建之    施主  千日前
                      島田

解説:塩尾寺参道
正面を浅く長方形に彫り下げ、そこに字を刻む。
左側面にも文字が彫られているがNo28の道標と接しているために読みとれない。
比較的最近のもので「丙子」の年は昭和11年(1936年)であろう。

解説ではNo28の道標で左側の文字が読めないとなっていますが、明らかに建て替えられてるので、その時に左の文字も確認したのかな?っていうか建て替えたのなら左も見えるようにちょっと離して立てればよかったのにと思うのは僕だけか。

道標30
所在地:小林字塩尾寺

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正: 塩尾寺 二丁

右: 施主 宝塚立美家

解説:塩尾寺参道を山中に入りしばらく進んだ左側にひっそりと立つ。
これ以外の丁石もあったはずであるが現在この丁石以外は残っていない。

甲子園大学の横をどんどん上がっていきNo24の道標の公園も過ぎて塩尾寺に登っていけば道のはずれにあります。
上の方が黄色と赤のペンキのようなもので汚れているのが残念です。

道標31
所在地:安倉北1丁目10 現在不明

解説:京伏見街道(寛文八年=1668年)
No2の道標とともに兵庫県で最も古い道標の一つであり、手法からおそらく同一人の手によって立てられたものであろう。
昭和46年の調査時に確認されたが昭和49年時には既に紛失している。中国縦貫自動車道建設工事の際に失われたものであろう。

元位置は小浜宿東口から東へ出た辺りか。ちょうど中国縦貫道が通ってるところですね。

道標32
所在地:安倉北4丁目1(安倉大池東) 現在不明

解説:京伏見街道
昭和49年3月頃に○○氏によって確認されていたが、農業用水改修の際に紛失したものであろう。
法量等詳細は不明である。
街道を東から来る者に対して中山寺を指示している。

安倉北4丁目の安倉大池とは176号線の安倉北2の交差点から私立病院の方へ入っていく道のところです。この池の横の道が元位置か。

道標33
所在地:中筋7丁目5  現在不明?

解説:京伏見街道と中筋より中山へ向かう間道との交差点に立っていたが、道路拡張の為にNo34の道標の隣に移された。「梅枝うめがや」は現大阪市北区梅枝町にあたる。「中やちく」は中屋のちくという人であろうか。「小者ま」は「小浜」の意。

No34の道標の隣に移されたとあるが、No34の画像を見ればわかるようにNo34の横には無い!
どこへ行ったのか。
これはどうもおかしな道標です。先生は荒牧の道標34の横に設置した記憶があるようですがきれいにない。

道標34
所在地:伊丹市荒牧深田6

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正: 左  伊丹 道
       大坂

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左: 右  中山道

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背:    荒牧利兵衛
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右: すぐ  池田 道
        京

解説:正面上部に地蔵が浮彫りされており、数枚のまえだれが掛けられ、供花が絶えない。
京伏見街道と中筋より伊丹へ向かう間道との交差点に立っている。
所在地は伊丹市であるが、京伏見街道沿いということで参考として掲載した。
荒牧に住む利兵衛という人の建立である。

道路沿い、サーバの向かいにあるのですぐにわかると思います。

道標35
所在地:不明

解説:京伏見街道から中山へ至る間道との分岐点に立っていたものと思われるが、原位置は明らかでない。
○○氏が所有していたが昭和58年に伊丹市立博物館へ寄贈された。

先日伊丹の図書館で伊丹の資料に「個人より寄贈された」という記事を見つけた。

道標36
所在地:小浜宿内
元位置:口谷東2丁目8(天理教会前)

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右: 右  伊丹尼(崎)
   左  多田満願

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正: 右  小浜有(馬)
   左  池田京

解説:京伏見街道と丹波街道との交差点に立っている。
北から南進する者と西から東進する者に四方向を指示している。
風化がひどく下部は欠損している。

これも元位置には無くて、現在は小浜宿に設置されています。

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