« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

2014年8月

2014年8月27日 (水)

ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実

ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実:水間 政憲

2013年に出た本ですね。第2次大戦での敗戦から数十年にわたって日本は戦争責任について責められ、そして日本はそれについて強く反論せず今まで反省をしてきたと思います。

そしてとくに中国韓国からの執拗なまでの日本批判についても、いままでじっと耐えてきていました。

近代史における日本の立場や日本が行った外交政策、経済行動についての事実に基づく発言さえ否定され、激しく非難される時代が今も続いています。

しかし戦後教育で教わらなかった近代日本のやってきたことを個人的に勉強し、日本のしてきたことをちゃんと評価しようという動きが最近大きくなってきてるように思いますね。

そのような日本の雰囲気に答えるのがこの本ということでしょう。

本の構成は、おもに日韓併合時代の朝鮮半島の様子を当時の写真と新聞記事で紹介してあります。
まさに当時を知るための1次資料を紹介してくれています。

ちょこちょこと朝鮮半島のことも調べていて、日本からの投資の金額的なものが当時の日本の予算からして莫大であったというのは知っていましたが、その成果を写真で朝鮮半島の様子を見ると、それがいかにすごかったかが画像で確認できてすごく解りやすいです。

とくに建築物は日本よりも朝鮮半島に建てた物の方が立派なのではないかと思えますね。
日本が朝鮮半島を統治する為にまず行った教育、そしてその教育のための小学校の建物が日本の小学校よりもはるかに立派な西洋建築で驚きました。
日本の昭和の初めの小学校は木造のものがほとんどだったのではないでしょうか。

教育は内容もそうですね、日本語を強制するのではなく、当時見向きもされてなかったハングル文字を体系的に整えてハングルで教育している。
そして奴隷階層だった人はより日本人に近づくために、創氏改名をもとめ日本人になろうとしたのです。

インフラもそうですね。鉄道、道路、ダム、化学や重工業の工場、どれを挙げてもいかに日本が朝鮮半島を良くしようと思っていたかが伝わってきます。
そして今の朝鮮半島に残る鉄道や道路は当時の日本が敷いたものがベースになっているというのは否定できないでしょう。

ほとんど写真を大きく載せて、それに説明文をつけるという形なので、読む本というより、見る本です。
すごく解りやすいのでお勧めですね。

2014年8月25日 (月)

韓国人に不都合な半島の歴史

韓国人に不都合な半島の歴史:拳骨 拓史

いわゆる最近はやりの嫌韓本のジャンルには入らないんだと思いますが、東洋史学の先生が歴史の事実関係を検証しながら日韓関係を見ていきます。

日本の報道は韓国側からの見方を流してるように見えるんですね、日本はそれに対してどうするのか、やはり日本人一人ひとりが日韓の歴史をもう一度見直して勉強して今の日韓関係を冷静になって考えないといけません。

日本の歴史の教育は近代史は少な目だし、戦後については、いわゆる自虐史観といわれる”何でも日本が悪い”的な話ばかりで、みんなもそれを信じ込まされてきたように思う。

とくに日韓関係は一方的に日本が悪者ですね

日韓関係の真実を言ったら政治家も失脚してしまうようなバカげたことになっていました。

日本の韓国併合は植民地ではなくて、日本からの投資はすごいのです。
それに、数百年続いた朝鮮のヤンバンの支配体制と奴隷という構図は、日本という外圧が無ければ朝鮮人自身では打破できなかったんではないかと思いますね。

漢江の奇跡といわれる韓国の急成長は、日韓基本条約による日本の資金で達成されたことは今や日本人は多くの人が知るところですが、韓国人の方はほとんどこの事実を知らないようですね。

李氏朝鮮での奴隷解放や、日韓基本条約での韓国の奇跡での朝鮮半島の近代化における日本の果たした役割はもっと正確に評価されるべきだと思います。

古代史の部分は現存する資料が少ない、しかも朝鮮半島にはほとんどないので、中国の歴史書や日本の古文書なんかから読み解いていかないといけない難しさがありますが、拳骨先生によると古墳時代から文化的には朝鮮半島よりも日本列島の方が進んでいたということのようですね。
古代史は好きなので結構調べてるつもりですが、日本が半島より進むのは飛鳥時代くらいかなと思っていましたので、もうちょっと古代の朝鮮半島と日本の関係も勉強しないとだめですね。

最後の方に「怨親平等の精神」というので、古来日本は戦争の後、敵方の人たちも弔うのだと説明されていますが、ここは僕の意見はちょっと違う。
逆説の日本史の井沢先生の受け売りですが、日本は基本的に「怨霊信仰」だと思います。敵方の将兵を弔うのも「怨霊信仰」で考える方がすっきりする。
日本にはいい死に方をしなかった人ほど”怨霊”になる可能性があるので、ひどければひどい死に方ほど手厚く弔わなければいけないんですね。

すごく解りやすく読みやすく書いてある本なので、日韓関係を勉強するには良いのではないでしょうか。

2014年8月17日 (日)

【宝塚】たからづかの道標その四

たからづかの道標その四です。

その壱

その弐

その参 

グーグルマップにポイントを落としてます。

道標67
所在地:売布3丁目15

67img_0903
正: みぎきよしこうじんみち
   右 清荒神道
            すく

解説:道標55、道標56を右に折れて、売布神社へ向かう道筋の左側に、民家の石垣によりかかるように立っている。
上部に「阿閦如来」の梵字が彫られており、また、読み仮名を一緒に記しているのは珍しい。

道標55、56のところから坂道を登っていくとすぐにあります。民家の塀に隠れるようになっていますがすぐ見つかります。

道標68
所在地:売布小学校内

68img_1281
正: 左 中山道 
68img_1284
背: 右 きよ水ありま
68img_1285
右:  惣作
68img_1277
解説:もと売布から清荒神近道と売布神社参道との交叉点、上の池の畔にあったものである。
左右側面の剥離面を未調整のまま残す。真中あたりで折れているのは惜しまれる。

売布小学校内の校舎にかこまれた中庭の中に69の道標と並んで奇麗に立っていました。
小学校内ということで勝手に侵入すると事案が発生してしまうので電話で訪問の意図を告げて許可をもらいました。案内は教頭先生が丁寧にしてただきました。

道標69
所在地:売布小学校内
69img_1286

背: すく中山道
69img_1279

正: すく荒神道
69img_1288

右: なだ
     若林嘉兵衛

解説:売布~清荒神近道
池の堤にあったものを開校当時、売布小学校に移したものである。
道標本来の役目を終え、今は小学生の歓声の聞こえる中庭で、道標68とともに教材として利用されている。

若干下が埋もれて字が見えなくなっています。
道標68と並んで立っています。

道標70
所在地:売布ヶ丘2

70img_0908
背: すく中山道
70img_0912
右: なだ
    若林嘉兵衛

70img_0911
正: 左 荒神道

解説:売布~清荒神近道
中国縦貫自動車道の建設によって周辺の状況が変っており、本道標も場所が移動したものである。

道標57の道を山の方へ登っていったところです。資料作成後にここの土地の建物を建て替えたのか、当時と道標の向きが変ってます。

道標71
所在地:売布ヶ丘2
71img_0915
正: 右中山へ
71img_0914
解説: 売布~清荒神近道
比較的最近のもので、文字の彫りも明確端麗である。

資料の解説では70の道標と並んで立っていましたが、同じ区画の西南角に移設されたようです。

道標72
所在地:清荒神3丁目(長池の西端)

右: 左 中山寺

正: 右 清荒神

背: なだ
     若林嘉兵衛

解説:売布~清荒神近道
道標70から西進した分岐点に東面して立つ。
今でもこの道標を利用する人が少なくない。
若林嘉兵衛の手になる道標の中で最も西に位置する。

72img_1256
長池の西端となってるが、現況は画像の自治会館になていて見てけることができなかった。
先生に確認しましたが、以前はあったということのようです。最近また行ってみましたがやはり不明。

道標73
所在地:切畑字長尾山
Img_1956

正: 右かう志ん

解説: 中山寺奥の院から尾根筋の道を南下し、清荒神への分岐点に立つ。
全体にこけが付着して古びた感じのする自然石の道標である。
自然石表面を角柱型に浅く彫り下げ、そこに文字が刻まれている。
下部が地面に埋まっているため、他に文字が刻まれているかどうかは不明である。

Img_1961
中山寺奥の院への道の途中にある”夫婦岩”の南側に売布神社駅への分かれ道があります。ここには看板も立ってるのでこれを目印にすればいけます。
夫婦岩から売布神社に向かって進んで行くとこのようにフェンスの際に道標が見えてきます。

解説にはここが清荒神への分岐点となっていますが、今は清荒神への道は使われていない様子でした。
Img_1955
ここが売布側からの奥の院への入り口。
この道標は中山寺から奥の院への道沿いにあるんだと思い込んで探してみつからなかった。
もう一度資料と付属地図を見直したら、どうも中山寺の奥の院への道からずれてる。
ということで売布側から入ってみると見つかりました。
資料の地図の位置はかなり正確なところにポイントが置いてあると判りました。

道標74
所在地:栄町2丁目

右: はんきゅう

左: こくてつ

解説:表面を粗い加工のままにして、温泉街から国鉄及び阪急宝塚駅方向を指示している。近年立てられたものである。

宝塚駅周辺の再開発区域ですね、見つけることが出来なかった。再開発で無くなった模様。

道標75
所在地:切畑字南カイチ2

75img_1071
左: ←いぶち銀山ひろね
75img_1072
正: →たけだを四十丁
75img_1073
右: 広芝

解説: 広根(猪名川町)~武田尾と鳥脇~玉瀬との交差点に立つ。
道標78と同じく矢印で指示標示をする珍しいものであり、「広芝」と、道標78の「廣芝茂兵衛」は同一人物か、あるいは何らかの関係のあるものと考えられる。
75img_1070
ここの交差点は新名神の周辺工事で道路が広くなってます。
この工事に伴って歩道に無事再設置されました。

75img_2072
少し前まで工事中はこういう風に放置されてた。
この状態で僕が発見して直宮先生にお知らせして現在の再設置になったのかな?ちょっと貢献できたかな。
宝塚市街地から西谷へ向かっていく道沿い。
武田尾に曲がる交差点です。

道標76
所在地:切畑字宮ノ後

76img_0978
正:   右池田いたみ
    南無阿彌佛
     左いぶち多田院

右:  元禄十五年午九月

左:  施主 北切畑大工
            権右□□

解説: 切畑~玉瀬の旧道にある。(元禄十五年=1702年)
「南無阿彌佛」と記し、供養塔の色彩の濃いものであり、旅人もまたこの道標に手を合わせ、旅の安全を祈ったことであろう。

76img_1035
解説にある通り旧道に行けばすぐわかります。
道標75の交差点を北にちょっといったところで左にそれる道があります、そちらが旧道なのでその旧道を入ってしばらく行った右手にある。お地蔵さんは祠に入ってるけど道標はその横でむき出しです。
資料作成時とは現況が変わってるようです。祠があるので横は読めない。

道標77
所在地:玉瀬字前田 満福寺境内

右: 玉瀬村
     同行十一人

正: 右 高平たんは道 安□(等)カ
   奉供養西国三十三所ニセ為
   左 ざい所ミち

左: 安永七年
     戌三月吉日

解説: (安永七年=1778年)
玉瀬村の住民11名が西国観音霊場三十三カ所巡礼を無事終えたことを感謝して立てたものである。
上部平端面に径3.5cm、深さ3cmの枘穴があけられており、地蔵台石を兼ねていたものであろう。

満福寺境内を歩いてみたけど見つけることが出来なかった。再度行ってみたが解らなかった・・・
先生によるとお墓側ということなので僕が探してないところにあるようです。

道標78
所在地:芝辻新田ナキ谷 長坂峠登り口

78img_1088
右: →右銀山。広根。妙見道
78img_1086
正: ←左 へうたん鉱山
78img_1087
左:   廣芝茂兵衛

解説: 銀山~大原野道
長坂峠の登り口、「へうたん鉱山」は、猪名川町銀山を中心とする鉱山で、豊臣秀吉が賞として馬印の千成瓢箪を与えたことにより呼ばれるようになったものであり、明暦~寛文年間(1655~72)に最盛期を迎えた。

この場所は普通は通らないところですね、ディープ西谷です。
目印としては太平洋クラブ宝塚コースの入り口のすぐそばです。
資料の写真だとカーブの内側にあるけど、現状は山側で、道路向かいに移設されたということです。草に覆われそうで見えにくいです。

道標79
所在地:長谷字小畑 長谷大池東

79img_1083
正:  右ながたにさそ利
           出雲州大原郡
    南無阿弥陀佛 西日□村
           行者嘉右ヱ門
                世話人
    左たかひら三田
                同村中

解説:銀山~大原野道
文政二年(1819)の大乗妙典遍国供養の人並んで立っている。
諸国を遍歴する出雲州大原郷出身の行者、嘉右ヱ門を世話した長谷の村民が立てたものであろう。

79img_1082
道標78に行く手前の池の端にある。これは道の分岐点にあってわかりやすい。

道標80
所在地:大原野字茶谷

正:  右 高平さそり
    高眼阿闍梨
     左 三田ありま

解説: 銀山~大原野道
道標81の東側の三差路角にあったものを移したものである。
阿闍梨は師範たるべき高僧の称号である。 

周辺を探してみたけど見つけることが出来なかった。
ここも新しい道ができていて資料作成時から現況が変わってる。

道標81
所在地:大原野字茶谷

81img_1091
正: 右ぎんざんいけた  みち
       能せあたこ

81img_1089
解説: 銀山~大原野
民家の石垣に取り込まれており、注意して見ないと見おとすものである。

これは意外と見つけにくかった。この辺りを何度も行き来して、資料をもう一度読んで、「民家の生垣になってる」というのを見てやっと見つけることができた。

道標82
所在地:大原野字岡田

正: 右 さそりむつのせ
    西国三拾三所供養
   左 はず川

右: 寛政四壬子年

解説: 木器道
(寛政四年=1792年)
道標77と同様に西国観音霊場三十三カ所巡礼を無事終えたことに対して立てられたものである。
正面左下の表面が剥離している。

すでに不明か。これは散歩ガイドの方でも紹介されてる道標で、見当たらないようなので先生に聞いたら、やはり工事でどこかに行ってるようだ、という話でした。

道標83
所在地:大原野字紙屋

83img_2083
正: 右池田伊丹
   左多田院妙見

83img_2086
右: 南無阿弥陀佛

左: 文化十癸酉天九月日

背: 俗名常盤山吉右衛門(カ)
   太機活用禅定門

解説: 波豆~大原野~銀山への街道、大原野の分岐点にある。
(文化十年=1813年)
「常盤山」は関取の四股名で、彼の供養のために造立したものである。
「天」は「年」の意である。

西谷小学校の南の道を西に行った突きあたり手前。西谷農協前から千刈水源地への抜け道途中の交差点にある。道路元標と並んでるのですぐにわかる。

道標84
所在地:波豆大畑 ドライブイン千刈

正: 右清水 道
   左三田

右: すく妙見 石田
          元右衛門

左: 文久三亥年
     右妙見道

背: 左三田道

解説: (文久三年=1863年)
さびた姿の自然石に流麗な文字が刻まれている。自然石で背面等四面に刻んである珍しいものである。

まだドライブインに行けてない。

道標85
所在地:波豆字向井山 岩ヶ鼻の手前
Img_1841
正: 延享二乙丑年八月
           施主
            麹屋
   奉大峯山三十三度供養
            庄右エ門
    左 京あたご

解説: 旧三田街道
(延享二年=1745年)
大原野から現在千刈水源地に沈んでいる波豆村を通り山を越えて三田に向かう街道に立つ。
上部に「不動明王」を示す梵字を刻む。
大峯山での修行満願を報恩して立てたものであろうか。

Img_1844
千刈水源地を普明寺の方へ渡り、普明寺の入り口を過ぎて民家の間の農道を抜けていくと画像の場所に出ます。先に見えてる森の中に入った左側に道標が立っている。大きい道標なのでわかると思います。

道標86
所在地:波豆字向井山
Img_1836

正: 地蔵 右 三田村
        左 在所也

解説: 旧三田街道
道標85のすぐ西にひっそりと立っている。
「地蔵」と文字表現している点が珍しい。下部は埋もれている。

道標85を正面に見て右へ向いたところにある。木に挟まれて埋もれてるのでわかりにくいです。資料の画像では”右三田”まで見えてますが、現在は”地蔵”の下は埋もれていました。

道標87
所在地:大原野字松尾

正: 右 いけだ
      いたみ

右: 左 ぎんざん
      た々能ゐん

左: 施主 石や
        作兵衛(カ)

解説: 大原野~木器の間道
「右」の字上部に「地蔵」を示す梵字が刻まれている。台石の上に立っていたが下部が欠損している。
少年自然の家の北方、木器より山越えで西谷へ入った分岐点にあった。
現存しない。

道標88
所在地:下佐曽利字西川

正: 花屋妙香信女

右: 右 三田有馬 道
   左 中山伊丹

左: 施主松田宇平
   娘俗名せう

解説: 「松田宇平」が娘「せう」の供養の為に建立したものである。
現在の位置は、原位置から移動している。

88img_1097
資料の地図位置ではこのような祠とお墓があるんだけど、お地蔵さんと台座の道標はない。
こことは違うのかな。

88img_1098
先生にこの画像を見ていただきましたが、これで間違いないようです。
土台だけが残っていて道標とお地蔵さんは行方不明!


88img_1103
少し南にこれがあるけど、これも道標とは違う様子。
どこにあるのかな?
これは違うようです。

88img_1105
資料の道標と似てるが書かれてる文字が違う。

道路元標[A]
所在地:小林1丁目4

Aimg_0954
正: 良元村道路元標

解説: 旧武庫郡良元村
道路元標は大正八年の道路法施行令によって「各市町村ニ一箇ヲ置ク」と定められ、翌九年には兵庫県告示第229令で県下425基の設置場所が決められた。
設置場所は市町村の主要道路との交差点か三叉路のあたるが、市内に現存するものはいずれもその位置が若干移動しているものと思われる。

小林会館の入り口にあります。

道路元標[B]
所在地:泉町1丁目

Bimg_1903
正: 小濱村道路元標

解説: 旧川辺郡小浜村
道路元標の様式は大正十一年の内務省令第20号により幅25cm四方、高さ60cm、形態は頭部がアーチ型と定められた。
旧武庫郡の道路元標は省令通りの形態であるが、旧川辺郡のものは頭部が三角形に尖っている。


中国道宝塚インターの北側の道、小浜と米谷への分岐点。

道路元標[C]
所在地:中山寺2丁目

Cimg_1747c
正: 長尾村道(路元標)

解説:旧川辺郡長尾村
旧川辺郡内の他村の道路元標を調べてみると川西村(現、川西市)、中谷村(現、猪名川町)のものは宝塚市域の3本と同形態である。なぜ旧川辺郡の形態が内務省令の規定と異なるのかは明らかでない。

Cimg_1748c
中山寺の山門を西へ行ったすぐ、トイレの前です。

道路元標[D]
所在地:大野原字紙屋

Dimg_2084
正: 西谷村道路元標

解説: 旧川辺郡西谷村
阪神間において旧村全部の道路元標が遺存しているのは宝塚市のみである。近世の交通資料である道標とともに近代以降における交通を知る手がかりとして貴重なものである。

Dimg_2082
道標83と並んで立っている。

2014年8月16日 (土)

【宝塚】たからづかの道標その参

たからづかの道標 その参です。

本文の解説を青文字、僕の説明は黒文字で表示します。

以前の記事は下のリンクからどうぞ。

たからづかの道標その壱 

たからづかの道標その弐

たからづかの道標その四

グーグルマップも参考にどうぞ。

道標37
所在地:平井2丁目3

37img_0807
正:大阪  御瀧講  世話人
37img_0808
右:最明寺     同松田
   是ヨリ八丁  中
            同魚岩

37img_0809
左: 京町堀   梶戸金
     同    八百福
     同    大 徳

解説:巡礼街道から丹波街道の分岐点、最明寺滝への入り口にある。
鎌倉幕府5代執権北条時頼は出家し鎌倉山内の別邸最明寺に退いた。彼が諸国を遍歴した折に宝塚の当地も訪れたことから、この地は時頼の別名「最明寺入道」にちなんで「最明寺」と名づけられた。

この道標も探すのに苦労した。巡礼街道と丹波街道の分岐点が分りにくかった。
丹波街道はこのすごく細い道です。しかも現場は民家の敷地内に見える。
阪急山本駅北側の道を東へ、一方通行の道から踏切に出る手前。

道標38
所在地:平井2丁目3

38img_0811
正: □□享三丙年
   中山寺道□也
         □八丁

解説:(貞享三年=1686年)
No.37の道標の東隣に横倒しとなっている。
昭和46年7月に確認された。
年号の上部に「地蔵」を表す梵字が彫られているようである。

37img_0810
画像のように敷地の外溝に埋まってる。磨滅して字は見えない。

道標39
所在地:平井2丁目16 大宝寺門前

39img_0819
解説:巡礼街道から満願寺方面へ分岐するところにあったものであろう。
左側面に戒名を刻み、供養塔の意味も兼ねている。
小祠の中に安置されている。

39img_0816
正:みき
    満願寺
   すく
    中山寺

左:  六親   妙体
     妙智  貞心
     妙三  栄□妙智
     六親  箕山□□
     箕山  貞心
     六親

39img_0818
道標38,39のところから丹波街道を行った先に大宝寺がある。祠の中なので横は見えない。

道標40
所在地:切畑字長尾山5 最明寺滝東

解説:丹波街道
平井山荘から満願寺へ向かう途中の山道東側にあり見つけ難い。
原位置は今より少し南の分岐点にあったと思われる。
深く彫られた梵字(阿弥陀如来)と共に優雅な筆跡の文字が美しい。
「満ん久アんじ」と漢字、平仮名、カタカナ混じりで表記している。

丹波道は歩いてみたけど探せなかった!
丹波街道は大宝寺から平井山荘の住宅街の東側を上がっていくと、民家の脇に山道に入っていくところがある。そこを抜けると道標41のところに出る。
探したところが間違ってたみたい。道標41の近くにあるのかな?

道標41
所在地:切畑字長尾山 不動橋北

41img_9791
正: 右 満願寺多田
     左 たん者みち

41img_9790
左: 天保六年三月
     竹縁斎北社中建之

解説:丹波街道(天保六年=1835年)
昭和49年秋頃に谷に落ちていたのを、○○氏が発見し現地に引き上げたものである。
「竹縁斎北社中」とはどのような内容の団体であるかは明らかでない。
「たん者」は「丹波」の意味である。

最明寺滝の山道で満願寺に登っていくと、道が平坦になったところにある。

道標42
所在地:切畑字長尾山
42img_1309

正: 不動明王参道

解説:丹波街道から最明寺滝への分岐点より、満願寺参道前までに同一形態のものがこれの外にもあり、計7本、ほぼ同間隔で立っている。

この道標は道標41から満願寺寄りにちょっといったところのものです。7本あるということですが他のものはまだ確認してない。

道標43
所在地:山本東1丁目2 木接太夫碑前

43img_2070
正: 右中山道

右:   施主池田売を徳

左:   釋尼妙真信女

解説: 巡礼街道
池田の「売を徳」なる人物が、娘か妻かわからないが供養の意味を兼ねて立てたものである。

山本駅の北側、巡礼街道を中山寺の方へ行ったすぐ。大きな木接太夫碑のところ。

道標44
所在地:山本東2丁目4 

解説:山本の集落内の里道分岐点にある。
表面を粗いままにして、重厚な文字が刻まれている。

44img_0805
ここだと思うんだけど道標は見当たらない!?
場所はここであってる模様。

道標45
所在地:山本東1丁目3

45img_0801
正: 右さい所?
    左み能お

45img_0803
左:  施主大阪住吉

背: 左池田

解説:巡礼街道
場所を移動したものか、方向が一致していない。
下部が深く埋もれている。
「み能お」は「箕面」のことである。

山本から中山寺への巡礼街道途中にある。移動してる可能性とのことなので元位置はどこか。

道標46
所在地:山本東1丁目4

46img_0799
正:  右
     中山
    右中山

解説:巡礼街道
地蔵を表す梵字が彫られている。
「右中山」と二行に並べて刻むが、左行の刻字が比較的はっきりしていることから後で新たに彫りなおしたものと考えられる。


道標45の西向かいにある。

道標47
所在地:山本東1丁目4

47img_0791
正: 右 中山
47img_0792
右:願主 池田槻木町丹波屋源七
47img_0793
背:  右 満願寺柳谷観音
    六拾六部七百五十人報謝宿
    左 中山寺       供養塚

左: 安永七戊戌歳十二月

解説:巡礼街道(安永七年=1778年)
六拾六部とは諸国を遍歴する修行者の一種で、これらの人を無料で宿泊させて布施する宿があった。
これはその数が750名に達した記念に宿が立てたものである。
「歳」は「年」の意である。

道標46から巡礼街道を中山寺方面に。松尾神社参道の角。

道標48
所在地:山本台1丁目 正念寺東門前

48img_0778
正: すぐ中山道
48img_0781
右: みぎ常念佛道
48img_0779
左: 施主池田之住坂上氏

背:   右ハ山本常念仏寺之道
    南無大慈観世音菩薩
      左ハ中山道是ヨリ一リ

解説:巡礼街道
明治初年、この地へ正念寺が移築され常念仏寺と合体し正念寺となっている。
元の道標は原位置より南にあったもので、この正念寺東門前に移され現在に到っている。

正念寺さんの入り口のところ。
山本園芸流通センターの西向かい、巡礼街道沿い。

道標49
所在地:山本台1丁目 正念寺内

49img_0786
正: 延享四卯十二月
    如月志やふ信女
    左中山是よ里六丁 

49img_0788
解説:巡礼街道(延享四年=1747年)
今は正念寺の墓地へ移されているが、元は、中山寺より六丁の地点すなわち天神川右岸の巡礼街道沿いに立っていたのであろう。
美しい石仏の台石を兼ねている。

正念寺さんの墓地内ということでお寺さんに声かけをして探しました。資料の画像では擁壁のところにあるので壁沿いを探したが発見できず、あきらめて帰ろうかと本堂前まで戻ってきて発見!墓地の入り口に移設されたようです。

道標50
所在地:中筋山手4丁目 しだれ桜横

50img_172210
正:す久中山寺道
50img_172310
左: 左ざい所道
50img_172410
右:  宝暦三癸酉歳二月施主中□□
                    水□□

解説:巡礼街道(宝暦三年=1753年)
昭和59年1月、近くの妙玄寺、法界内の柱横にあったのを○○氏と○○氏が見つけたもので、下部を欠損している。
左の「ざい所道」は「村内の道」の事である。

資料制作時点では個人宅の庭に保存されていたようですが現在は中筋のしだれ桜の横に移設してあります。中山桜台へ登っていく道沿いです。元位置はどこか。
50img_172110

道標51
所在地:中山寺山門前

51img_173707
右:安政二年     花山院講元
  乙卯五月 大阪  大川屋由兵衛

正:  西国巡礼御ゑい可能元祖
     菩提寺
    右 花山院道 五里半
       清水に通りぬけちか道あり

左:   ありまふしもと能きりを
       海とみてなみかときけば
         小野乃まつかぜ

解説:巡礼街道(安政二年=1855年)
花山院(三田市)および清水寺(西国25番札所)への方向を示す。五里半は約22kmにあたる。
左側面に西国巡礼御詠歌を流麗な字体で刻んでいる。

中山寺の山門の南側にあります。

道標52
所在地:中山寺山門前

52img_1738
正: 日本第一 清荒神王道十二丁

右:西宮清水小濱
  西宮大坂通ぬけ 江戸深川講中

背:天保十二年辛丑三月すぐ京池田
                   伊丹

解説:巡礼街道(天保十二年=1841年)
「日本第一清荒神」と広く一般に信仰されていたが、本道標に見られるように江戸深川と関東方面にまでその名が知られていたことがうかがえて興味深い。

道標53
所在地:中山寺2丁目4 山門西

53img_1274
正:左り 寶塚  道
       清荒神

53img_1276
左: 施主大阪港区南安治川二丁目
          中村重三郎

解説:巡礼街道
中山寺山門を過ぎて少し西へ行った分岐点にある。
古く見えるが、大阪港区とあらわしていることから、比較的新しいものである。

資料では「分岐点」となってるが、今は南側の駐車場の中にある。元は分岐点にあったが道路拡張でここへ移設したようです。

道標54
所在地:売布4丁目3 民家内

正: 右中山道

左: なだ
     若林嘉兵衛

背: 左荒神道

解説:巡礼街道沿いにあったものが移動したものと思われる。
「若林嘉兵衛」の手によって幕末の頃売布神社から清荒神の間の近道に10本の道標が建立された。
これはそのうち内の1本であり、現在この他に6本が確認されている。

ここは民家の中にあるようなので確認できてない。

道標55
所在地:売布3丁目15

55img_0896
正: 日本第一 清荒神霊社
55img_0897
右: 施主 大坂住
          橘徳兵衛

55img_0895
左: これよ里にしへきよし
   くわう志ん道□けあり

背: 清澄寺政尊代

解説:巡礼街道
売布神社東方から清荒神への近道分岐点にある。
「きよしくわう志ん」とは「清荒神」のことであるが「志(に濁点)」という表記は珍しいもので、このほかに道標73にも使用されている。

阪急の売布神社の駅から上に上がり巡礼街道に出て左に曲がったところ。

道標56
所在地:売布3丁目15

56img_0898
正: すく清水
      寶塚

56img_0894
背: すく中山
56img_0893
左: 右 荒神道
56img_0899
右: なだ
     若林嘉兵衛

解説:巡礼街道
道標55の左隣に立っている。
これも「若林嘉兵衛」によって立てられたものの一つである。
風化がはげしい。「すく」は「まっすぐ」の意味である。

道標55のすぐ横。

道標57
所在地:清荒神2丁目16

57img_0905
正: すく中山道

背: すくきよ水ありま

右:      於講

解説:巡礼街道
流麗な文字と共に、すらりとした感じを受ける道標であるが、下端40cm程で折れて補修が施されているのは惜しまれる。

売布小学校の下の巡礼街道を西に行き橋本関雪邸を過ぎた次の辻を右に曲がったところ。画像のように生垣に埋もれてるので正面以外は見えない。

道標58
所在地:清荒神2丁目18

58img_0918
左: すく中山道
58img_0917
正:  願主
      若林嘉兵衛

58img_0919
右: 右 荒神道

解説:巡礼街道
この道標に従い角を右へ進むと、同じく若林嘉兵衛の手になる道標72の辻に出る。

道標57から巡礼街道を西へ行きため池を過ぎた辻。

道標59
所在地:中山寺華蔵院庭内

59img_182808
正:      永正十四丁卯
    六丁山城国□□□□石大工 春政
         八月十八日

59img_185108
背: 右ハきよ水
    左ハひやうご 道

右: 建主椙本坊祐慶

左: 天和三年十一月十八日

解説:宝塚市指定文化財
永正十四年(1517年)の建立で中山寺参道に建てられた丁石であるが背面の追銘によって天和三年(1683)以降道標として再使用されたことがわかる。その後里道の橋に転用されていたのを現在位置に移し保存されている。
正面上部に阿弥陀如来、背面上部に地蔵を示す梵字がそれぞれ彫られている。

この道標はガイドマップの時に探すのを苦労した。中山寺の山門を入り参道の右側のお寺の華蔵院に入ったところにある。
2016年に見たら、市の説明板がきれいになってた。

道標60
所在地:中山寺梅林内

60img_1270
右: すく 伊丹池田 道
       箕面

60img_1271
背: なだ
     若林嘉兵衛

正: すく荒神花山院 道
     左 西宮中山

左: 観世音菩薩
60img_1269
解説:巡礼街道沿いにあったものを中山寺境内に移して保存していたが、梅林造園に際して現在地へ移された。
旧位置は全くわかっていない。

中山寺梅林の公園の中にありました。
いま画像で見て見たら、正面、右、左の説明がちょっと違う気がする。
現在は生垣に埋もれて全部見えないからちょっと確認しにくい。

道標61
所在地:中山寺信徒会館前庭

61img_0875
正: 常夜燈
61img_0876
左: 右大坂
   左中山寺  八丁

61img_0877
背: 安政四丁巳年六月建之

右: 南無阿弥陀佛

解説:安政四年=1857年
もと有馬街道小浜の東口、谷池の畔にあったものを現在地へ移したものである。
施主として、岡山、和泉、堺、大坂の有名人や地元小浜の有力者名が台座に連記されている。

中山寺の信徒会館休憩所の前の広場にあります。

道標62
所在地:中山寺信徒館西

62img_184309
正: すくおくのゐん道 是より
                十八丁

62img_184409
左: 世話人大坂傘講
        大和屋与八

62img_184509
右:    教岸
    繹 妙煩  霊位
      妙正

解説:奥の院への出入り口左側に立っている。
大和屋与八が教岸、妙煩、妙正の供養を兼ねて建立したものである。
刻印のなかに後日、墨入れを行っている。


信徒会館の西側、梅林と奥の院に向かう入り口です。

道標63
所在地:中山寺信徒館西


右: 宿坊寶蔵院

正: 左本山道是ヨリ十八町

左: 享保十九甲虎十二月
    施主 辰巳休海

解説:享保十九年=1734年
奥の院への出入り口右側に立っている。
刻印のなかに後日、墨入れを行っている。

63img_0879
道標62のすぐ上のこの場所だと思うのですが見当たらない。ここに新しい施設を作ってるようなのでその時にどこかに移設したのかな。
中山寺さんでお聞きしたんですがまだ解決せず。

道標64
所在地:中山寺墓地北西

64img_0872
正: 壹丁

右: 宿坊寶蔵院

左: 享保十九甲虎年十二月
      施主 辰巳休海

64img_0874
解説:享保十九年=1734年
道標63から奥の院へ向かう山道に一丁おきに立っている丁石であり、同時期に同一人物の手によって十八丁分全てが建立されている。
塩尾寺、清荒神等にも丁石は残されているが、これほど完備して現存しているのは中山寺奥の院の丁石のみであり貴重なものである。

この丁石は奥の院までちゃんと十八本ありますね。
道標62のところから梅林の入り口を過ぎたすぐ。

道標65
所在地:中山荘園3

65img_0866
正: 貮丁
65img_0868
右: 宿坊寶蔵院

左: 享保十九甲虎年十二月
     施主辰巳休海

解説: 享保十九年=1734年
足洗川を渡った四差路角に立つ。
道標64の丁石と同一形態のもので奥の院まで三丁、四丁・・・と正確に揃っている。
以下のものは省略する。

資料は三丁以下を省略ですが十八丁まで行きましょう。
Img_1313
三丁

Img_1315
四丁
Img_1316
五丁
Img_1318
六丁
Img_1319
七丁
Img_1321
八丁
Img_1323
九丁
Img_1324
十丁
Img_1328
十一丁
Img_1330
十二丁
Img_1331
十三丁
Img_1334
十四丁
Img_1336
十五丁
Img_1338
十六丁
Img_1340
十七丁
Img_1342
十八丁


道標66
所在地:中山荘園4

66img_0885
正: 左本山道

右: 宿坊寶蔵院

左: 享保十九甲虎年十一月
     施主 辰巳

解説: 享保十九年=1734年
奥の院への二丁石と三丁石の中間わき道の分岐点にある。
前記の丁石より、ひと月前に建立されたものである。

解説の通り二丁と三丁の間にあるので注意してれば見つかります。

よみがえる縄文の女神

よみがえる縄文の女神:渡辺誠

考古学専門の先生が縄文時代の世界を精神面も考えながら紹介してくれます。

素人向けに優しい言葉で書かれていて読みやすくなってます。けど逆にいろいろな説明が具体的でないと感じるところがあって解りにくい気がした。

古代史でもとくに縄文時代という16000年前から3000年くらい前とかなり古い時代のことなので、当然文献も無いので発掘された遺物の使い道も想像で行うしかない。
ましてや縄文人の生活や精神世界のことなどまったくの想像で描くしかないですね。
そうすると断定的に書かれてるとなんか違和感を感じるし、あんまりぼかして書いてあると解りにくいしと、難しいですね。

縄文時代の遺跡は東日本に比較的多いですが、日本列島全体にあるし、時代の幅が13000年とものすごく広いので、縄文時代の土器や土偶、貝塚等の遺物から似たような物をひとくくりに同じような解釈を取るのはちょっと無理があるのではないかなと思ったりすることがありますね。

土器やら貝殻の装飾品、翡翠製品等の移動から、広い範囲での交流が考えられるけど、当時の人口分布とか地域差とか交流頻度などがどうなのかすごく気になる。
そして交流は結構あったとはいえ、それぞれの地域で個性的な独自な文化があったのではないかと思うのですがどでしょうか。
そういう意味で、土偶などの使い方等で縄文時代のひとくくりにするよりも地域差があったかもしれないと思いたい。

この本で渡辺先生も言っておられますが、現在の日本人の文化の中に、縄文時代から続いてると思われる物がたくさんありそうです。
そしてそういうことから、日本人のルーツを古事記、日本書紀に求めるより、それ以前の縄文から考えなければいけないというのは、まったくその通りだと思います。

2014年8月12日 (火)

日本史の謎は「地形」で解ける:文明文化編

日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化編

竹村公太郎

竹村氏は建設省で土木を専門にされていた方で、歴史家ではないです。しかしそういう人だからこそ、歴史の常識にとらわれない視点で分析することができるのだと思いますね。

歴史上のどんなことを地形から考察したかをまずは目次のタイトルで紹介しましょう。

☆なぜ日本は欧米列国の植民地にならなかったか

☆日本人の平均寿命をV字回復させたのは誰か

☆なぜ家康は「利根川」を東に曲げたか

☆なぜ江戸は世界最大の都市になれたか

☆貧しい横浜がなぜ、近代日本の表玄関になれたか

☆「弥生時代」のない北海道でいかにして稲作が可能になったか

☆上野の西郷隆盛像はなぜ「あの場所」に建てられたか

☆信長が天下統一目前までいけた本当の理由とは何か

☆「小型化」が日本人の得意技になったのはなぜか

☆日本の将棋はなぜ「持駒」を使えるようになったか

☆なぜ日本の国旗は「太陽」の図柄になったか

☆なぜ日本人は「もったいない」と思うか

☆日本文明は生き残れるか

☆ピラミッドはなぜ建設されたか

上のような歴史上の出来事を地形や気象条件などの方面から検討をしていきます。
歴史のなぜのいろいろある理由の一つに地形が大きく関係している、ということですね。地形だけがその理由ではないと思いますが、地形を見ればその必然性が解ってくるということでしょうか。

非常に読みやすい面白い本だと思います。そして納得がいきます。

いくつか簡単に紹介してみましょうか。

欧米列国の植民地にならなった理由を一言でいうと、「日本には搾取する物が何も無かった」ということですね。それとちょうど開国を迫って日本に来ていた時期に、欧米人が恐れる地震が頻発していたというのも理由に挙げておられます。
植民地化するのに利益が上がりそうになければ無理に植民地化はしないと思われますね、それに地震が絡むというのは面白いですね。
しかし僕的には植民地にならなかったのは、江戸後期の日本人が独自の文化で発展していて日本の将来を真剣に考えそれに立ち向かうことができるだけの実力をすでに備えていた、ということが大きかったのではないかと思いたいですね。

利根川と江戸の発展は、徳川家康の地形を読む能力が優れていたということなんですね。
徳川家康のやったことについてはあまり知らないのですが、頻繁に鷹狩りに出かけていた、その理由というのが、諸国の地形調査だという見方です。
そして天下統一後の燃料問題を解決できるのが森林を背後にもつ江戸であったと。
そして利根川を東に振って川を千葉側に流したのは、東北方面からの軍事的脅威を自然の川を掘り代わりにするということで利用した。
川を曲げた理由はほかにもあるのでしょうが、軍事的な観点から理にかなってるなと思いました。

信長の天下統一についてはこの本の中でちょっと趣が違っていたように感じましたね。信長については地形というより、信長自身の弱者の工夫、敗戦から教訓を得る、というような感じでしたね。

小型化と将棋の持駒は関連しています。日本人は古来から移動は自らの足で歩いて全国を回っていました。
日本以外の国では早くから移動には馬や牛やラクダとなどの動物を使っていたのとは大違いですね。
これも日本が山ばかりだという地形が大いに関係ある。
そして自分の足で移動するということは、荷物も自分で持ち歩かなければならない。そうすると、携行品はできるだけ小さく軽い方がいいということになる。
そこで日本人は何でもかんでも小さくすることにこだわったんですね。
チェスと同じ系列の遊びである将棋の駒が小さくなるのも、旅で持ち歩くのに便利なように小さくなる。そして旅の道中で将棋を指すと、早く決着をつけるために持駒を使うようになったのではないか、ということですね。これもそのような気がしますね。そういう単純なことが理由になることの方が多いでしょうからね。

ピラミッドについては、お墓ではないというのは以前に読んだ本から知っていましたが、では何なのか?というのは今まで見たことが無かった。
ピラミッドはあの大きい四角錐のしか知りませんでしたが、あれ以外にもいろんな形の物がたくさんあるんですね。
そしてこれは竹村先生の本職の治水から謎を解くことができる。
ピラミッドは川の西側の左岸に設置されている、これは川の氾濫を押さえて流れを制御する「からみ」という物の役目をしてるのだと。
しかしあの有名な四角錐のピラミッドは高台にあって「からみ」ではない。
これはナイル河口の広大なデルタで作業をするための灯台の役目をしていると。これらの見解でエジプトの学者さんを初めてピラミッドの建設の合理的な説明だと納得させたのはすごいですね。

歴史学以外の視点からの歴史本はトンデモ本もありますが、常識にとらわれないのがいいですね、しかも納得がいくことがある。

2014年8月 2日 (土)

【宝塚】たからづかの道標その弐

たからづかの道標 その弐であります。

グーグルマップにポイントを落としてありますのでどうぞ。

宝塚市の資料をもとに市内の道標を紹介してますが、92本と多いので、記事は何回かにわけて行こうと思います。

その壱

その参

その四

解説書の説明は青文字で、僕の説明は黒文字です。

道標25
所在地:湯本町11

25img_0938
正: 左塩尾寺
      是ヨリ十五丁

背: 大正元年十一月
     大阪材木商泉平

26img_0204
解説: 塩尾寺参道(大正元年=1912年)
県道西宮~生瀬線から西へ分岐して少し行った右側にNo26の道標と並んで立つ。
もとは、2本とも県道との分岐点に立っていたものであろう。

宝来橋を西にわたるとつきあたりみたいになりますが、ちょっと右に細い道があり、そこを上ったところにあります。画像のように2本並んでる。

道標26
所在地:湯本町11

26img_0939
正: 六甲山  十一面観世音
   塩尾寺        すぐ十五丁

右: 大阪  観栄講
          発起人田中

26img_0940
左:   厄神明王

背: 明治三十二年九月  建之石工摂
                 本丁

解説:(明治三十二年=1899年)
「すぐ」とは「まっすぐ」の意味である。
正面右上部が欠損している。
塩尾寺の参道はNO.23の道標から来る道筋と、NO.25,26の道標前の道筋と2本があり、紅葉ヶ丘で合流する。

道標27
在地:月見山1丁目5 現在不明

解説: 塩尾寺参道
昭和46年ごろの文化財研究会撮影のスライドにはNo28,29の道標と同地点にこの道標が写っているが、現在これだけが紛失している。
おそらく河川改修工事、ガードレール取り付け等の為に昭和46年以降に行方不明になったものであろう。法量等詳細は不明である。

道標28
所在地:月見山1丁目5

28img_0053
正: 宝塚大黒

解説: 塩尾寺参道
月見橋を渡った左側にNo29の道標と並び同一場所にある。
「大」の字から下は埋もれている。

資料制作後に建て替えられてるようでちゃんと直立しています。解説では下の「黒」が見えなかったようですが現在はちゃんと「寶塚大黒」と読めます。

道標29
所在地:月見山1丁目5

28img_0942
正: 寶塚不動尊
29img_0943
右: 丙子
     三月建之    施主  千日前
                      島田

解説:塩尾寺参道
正面を浅く長方形に彫り下げ、そこに字を刻む。
左側面にも文字が彫られているがNo28の道標と接しているために読みとれない。
比較的最近のもので「丙子」の年は昭和11年(1936年)であろう。

解説ではNo28の道標で左側の文字が読めないとなっていますが、明らかに建て替えられてるので、その時に左の文字も確認したのかな?っていうか建て替えたのなら左も見えるようにちょっと離して立てればよかったのにと思うのは僕だけか。

道標30
所在地:小林字塩尾寺

30img_0212
正: 塩尾寺 二丁

右: 施主 宝塚立美家

解説:塩尾寺参道を山中に入りしばらく進んだ左側にひっそりと立つ。
これ以外の丁石もあったはずであるが現在この丁石以外は残っていない。

甲子園大学の横をどんどん上がっていきNo24の道標の公園も過ぎて塩尾寺に登っていけば道のはずれにあります。
上の方が黄色と赤のペンキのようなもので汚れているのが残念です。

道標31
所在地:安倉北1丁目10 現在不明

解説:京伏見街道(寛文八年=1668年)
No2の道標とともに兵庫県で最も古い道標の一つであり、手法からおそらく同一人の手によって立てられたものであろう。
昭和46年の調査時に確認されたが昭和49年時には既に紛失している。中国縦貫自動車道建設工事の際に失われたものであろう。

元位置は小浜宿東口から東へ出た辺りか。ちょうど中国縦貫道が通ってるところですね。

道標32
所在地:安倉北4丁目1(安倉大池東) 現在不明

解説:京伏見街道
昭和49年3月頃に○○氏によって確認されていたが、農業用水改修の際に紛失したものであろう。
法量等詳細は不明である。
街道を東から来る者に対して中山寺を指示している。

安倉北4丁目の安倉大池とは176号線の安倉北2の交差点から私立病院の方へ入っていく道のところです。この池の横の道が元位置か。

道標33
所在地:中筋7丁目5  現在不明?

解説:京伏見街道と中筋より中山へ向かう間道との交差点に立っていたが、道路拡張の為にNo34の道標の隣に移された。「梅枝うめがや」は現大阪市北区梅枝町にあたる。「中やちく」は中屋のちくという人であろうか。「小者ま」は「小浜」の意。

No34の道標の隣に移されたとあるが、No34の画像を見ればわかるようにNo34の横には無い!
どこへ行ったのか。
これはどうもおかしな道標です。先生は荒牧の道標34の横に設置した記憶があるようですがきれいにない。

道標34
所在地:伊丹市荒牧深田6

34img_0772
正: 左  伊丹 道
       大坂

34img_0773
左: 右  中山道

34img_0774
背:    荒牧利兵衛
34img_0777
右: すぐ  池田 道
        京

解説:正面上部に地蔵が浮彫りされており、数枚のまえだれが掛けられ、供花が絶えない。
京伏見街道と中筋より伊丹へ向かう間道との交差点に立っている。
所在地は伊丹市であるが、京伏見街道沿いということで参考として掲載した。
荒牧に住む利兵衛という人の建立である。

道路沿い、サーバの向かいにあるのですぐにわかると思います。

道標35
所在地:不明

解説:京伏見街道から中山へ至る間道との分岐点に立っていたものと思われるが、原位置は明らかでない。
○○氏が所有していたが昭和58年に伊丹市立博物館へ寄贈された。

先日伊丹の図書館で伊丹の資料に「個人より寄贈された」という記事を見つけた。

道標36
所在地:小浜宿内
元位置:口谷東2丁目8(天理教会前)

36img_0350
右: 右  伊丹尼(崎)
   左  多田満願

36img_1027
正: 右  小浜有(馬)
   左  池田京

解説:京伏見街道と丹波街道との交差点に立っている。
北から南進する者と西から東進する者に四方向を指示している。
風化がひどく下部は欠損している。

これも元位置には無くて、現在は小浜宿に設置されています。

« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ