« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月

2014年7月20日 (日)

縄文の豊かさと限界

縄文の豊かさと限界:今村 啓爾

遙かなる海上の道:小田 静夫

縄文人に学ぶ:上田 篤

勾玉の事を調べようとおもって縄文時代の関係の本を続けて読んでみました。。

縄文時代の研究もだいぶ進んでるのでしょうけど、やはり遺跡自体が地中深くなるし、遺跡の存在自体が少ないと思われるので、それに古すぎてデータを憶測していくしかないようで、本の厚みも薄めですね。

いろんな人が言ってますが、日本人の文化や精神世界の根底位の部分を形成するところに、縄文時代からの日本列島人の生活がかなり残っているのではないかというのは僕もそう思います。

「縄文の豊かさと限界」の中で、縄文時代は安定した定住生活で継続的に順調に発展したのではなく、縄文前期の末約5000年前に人口減少があったとあります。
そしてその原因は何らかの食糧事情ということではっきりとは書いてない。

「遙かなる海上の道」は南方からの黒潮に乗って古代人が広く交流していた、ということ書いてあります。
南方の沖縄方面から九州のことを多く扱ってるのですが、そこでとくに注目してるのが火山の噴火ですね。
その火山噴火とは、約7000年~6500年前の鬼界カルデラの巨大噴火ですね。

縄文時代の中でこの鬼界カルデラの火山灰が時代を計る一つの基準になってるんですね。

上で紹介した縄文前期末の人口減少は、この鬼界カルデラ火山爆発が大きく関係してるんではないかと想像しますね。
火山灰が直接降り積もることで住む場所や食料の植物が無くなったり、それを食べる動物もいなくなるという影響ももちろんですが、火山灰が上空にとどまることで日照が無くなり植物の生育が悪くなるというのは影響が長期になりますからね。

古代人が、フィリピン~台湾~沖縄~九州の海の道を行っていたというのもすごいことですが、東京の南、伊豆諸島~小笠原諸島の海上交通を行き来していたというのはすごいですね。
前回に書きましたが、縄文人も道具に対してのこだわりはすごかったらしく、伊豆諸島の神津島の黒曜石を海を越えて求めていたというのも面白いですね。

「縄文時に学ぶ」の上田先生は建築関係の官僚出身で、古代史・歴史の専門家ではありませんね。そういうことで現代文化に残る縄文時代の面影を、自由に語っていらっしゃいます。
今に残るものと縄文文化をいろいろと結び付けて語られるわけですが、話がいろんなところに飛び過ぎてちょっとわかりにくいかな。
突然聖徳太子の「和をもって貴しとなす」の言葉を紹介されるけど、その2行ほどで終わったり。古事記の神話と絡めたりというのも、先生の広い知識の中でいろいろ結びつくのでしょうが、広がり過ぎで一つ一つの説明が薄くなってわかりにくかった。
まあ新書なんで縄文文化の側面を読む感じでいいかな。

2014年7月19日 (土)

【宝塚】たからづか歴史散歩:ガイドマップ④

たからづか歴史散歩:ガイドマップの第4弾になります。

ここでは57~最後の75までを紹介します。

地区的には西谷方面です。こちらは地図の縮小が上手くいかなかったのかすごく地図が小さくてわかりづらい。

西谷地区は市街地からは山を越えていかないとだめなのでなかなか行けないです。山本から長尾山トンネルを抜けて行ってます。生瀬橋か御殿山~北高を抜けて十万辻のコースはだらだら登りが続くのでしんどいです。自転車の場合ですね!

たからづか歴史散歩:①
たからづか歴史散歩:②
たからづか歴史散歩:③
たからづか歴史散歩:街道・道標

改訂版が出てます。変更箇所はこちらにアップしてます。

歴史散歩マップ にポイントを落としましたこちら からどうぞ。
道標・街道マップ も作りました。
マップの街道筋は、今も道路が残ってるところもありますが、道筋が変っていたり道が無い部分等は想像で線をひいてる部分もありますので、参考までにしていただければと思います。

57・ダリア園【I-6】
宝塚市北部の上佐曽利では、市街地より少し気温が低く、ダリア栽培に適した気候で、昭和5年より農業の副業として生産が始まりました。6月から11月にかけてはダリアの花摘みを楽しむことができます。
Img_1094
上佐曽利あたりの花畑です。このあたりがダリア園になるのでしょうか。ちょっとわかりにくいですが花が咲いていたので撮ってみました。

58・三蔵山【I-6】
猪名川町との境界になる三蔵山の山頂には、戦国時代に佐曽利筑前の守が築いたとされる三蔵山城(佐曽利城)跡があります。佐曽利氏は初め織田信長方と対立しましたが、和議の末、信長方に組し、江戸時代には豊後(大分県)竹田に移封されています。
Img_1939

これが三蔵山ですね。まだ登ってませんが三蔵山を確認しました。次は山頂の城跡の確認ですね。
登山道の入り口は北側を通る猪名川に抜ける道からのようです。

Img_0758
これはすぐ西側の今井岳でしたね。

59・長谷素盞嗚神社【I-6】
本殿の前にある長床(舞台)の床下をくぐって参拝するという変わった形式の参道になっており、本殿は三間社切妻造、江戸時代初期のもので兵庫県指定の文化財。西側に接する普光寺の境内には、観応元年(1350)建立の宝篋印塔があります。
Img_0740

鳥居と舞台です。ここに立った時に、階段と入り口の天井の高さがやたら低いなとおもったら、ガイドブックにちゃんと”舞台をくぐる”と説明がありましたね。

Img_0742
くぐると神社が出てきます。見るからに古そうな神社です。
Img_0743

保護のための覆い屋が作られてますね。

Img_0749
これが鳥居の次にくぐる舞台です。 車で見えないけど、床下から出てくる感じになる。

 Img_0747
すぐ横にある宝篋印塔。銘は読めなかった。

Img_0738
登り口の普光寺の山門には巨大なわらじがありました。

60・牡丹園【I-6】
宝塚の牡丹栽培の歴史は古く、有名な福島県那賀川や島根県大根島の牡丹なども宝塚から出荷されました。この牡丹園では、北海道から九州まで全国の出荷先から宝塚に里帰りした牡丹を見ることができます。
Img_0753

素盞嗚神社のすぐ下にありました。
たまたま行ったら長谷牡丹園まつりの時期でした。入り口で300円入りますよ。
近くに臨時駐車場がありましたが、そちらは無料で止めせてもらえます。長谷はながたにと読みます。

Img_0755
牡丹園も下の方から撮りました。ちょっとさみしい感じです。
もっと所狭しといっぱい花があるのかと思ったらそうでもなかった。
 

61・妙見山【I-6】
長い階段の参道を上ると妙見山神社があります。妙見信仰は北極星・北斗七星を神格化したもので、国土を守護し災厄を除き人の福寿を増益するといわれます。また、道教の鎮宅霊符神と習合して、五穀豊穣や商売の神としても信仰を集めています。
Img_0726

この急な階段を上ると上に妙見山神社があります。

Img_0729
妙見山神社。

Img_0734
ここが妙見山への入り口。この農道の奥をずんずん行くと階段がありました。
場所は長谷牡丹園の道路を挟んだ向かい側あたりです。

62・旧東家住宅【I-6】
江戸時代中期に建てられた西谷地域の典型的な農家で、市立少年自然の家の中に移築して歴史民俗資料館として公開しています。屋根は茅葺きで、土間があり、部屋の中には囲炉裏が切られています。内部には昔の農具や民具を展示しています。

Img_0377
この建物は宝塚自然の家の敷地の中にあります。ここは今回訪れたのではないですが、去年、地図(マップル)に歴史民族資料館と表示があるので何かな?と探しに行った時の物です。
江戸時代の農家をここに移築してあります。

Img_1856
再び訪問。今度は事務所に声をかけて見学をお願いしたら、引き戸をあけて中に入れるとのこと。
中に入り自分で電気をつけて見学することができました。中には当時の生活道具がそのまま残してあり、いちおう民俗資料館的になってました。

Img_0380
自然の家入り口。入場無料、アスレチックも無料!夏休み最後の日曜日でしたので、小さいお子さん連れが結構来てました。
宝塚自然の家も建物老朽化で休館になるようですね。残念です。

63・松尾湿原【I-6】
少年自然の家の敷地内にある湿原で、宝塚市指定の天然記念物。この湿原は、沖積土の不透水層上に発達した谷湿原で、オオミズゴケ、サワヒヨドリ、サワギキョウ、カキランなどが生育しています。近年、乾燥化などにより衰退していましたが、復元のための作業が行われています。
Img_1849

やっと行って来た。
自然の家の施設内になります。広場の先にありました。
事務所で松尾湿原の資料もコピーいただきました。

64・大日堂【I-6】
西谷中学校の校庭の北側に大日堂と呼ばれるお堂があります。このご本尊の大日如来坐像は寄木造という技法で作られ、全体に漆箔が施されています。鎌倉時代のものと考えられ、市指定の文化財になっています。
Img_1080

この大日堂は”西谷中学校の校庭の北側”と書いてあるので、てっきり西谷中学校の校庭の中にあるものだと思って校庭の北側道路から校庭の中を見てみたけど、何度見ても解らなかった。それもそのはず、校庭の中の北側ではなくて中学校の敷地の外の北側なんですね~先生に聞いてやっとわかった。
また行かなければ。

ということでやっと行って来た。西谷中学の北側の道からさらに細い登り坂を上がった所にありました。

65・阿弥陀石龕【I-6】
鎌倉時代後期頃作られたもので、奥壁の正面上方に阿弥陀如来を彫り、その下方の左右に合掌する男女の坐像を彫っています。男女像の頭上には「桂妙」「覚圓」と刻まれており、親の供養のために子供が立てたものと思われます。

これもかなり探しました!西谷中の横の阿弥陀寺にあると思ってたのに無い!そこで西谷中の周辺をくるくる回ったけどついに発見できなかった・・・
直宮先生に聞いたところ、阿弥陀寺にはなくてその近所の民家のところにあるそうです、再度チャレンジか。

これは見つけることが出来なかった・・・再々チャレンジだな。

66・自然休養村【I-7】
西谷地区全域の約45㎢は自然とのふれあいの場として、自然休養村に指定されています。ダリアの花摘みや栗拾い、芋掘り、イチゴ狩り、山菜取り、釣りなど、四季を通じて楽しめる所で、バードウォッチングや森林浴、ハイキングもできます。

Img_2077
ガイドマップではダリア園の畑が紹介されてますが、畑は探さなかったです。
たまたま向かいのふれあいプラザで休憩して看板の地図を見たら向かいに自然休養村の建物があったのでそちらの写真です。この建物が旧の西谷庁舎か?自然休養村とは西谷全域のことなんですね。西谷で自然に触れて遊びましょう、ということですね

67・大原野素盞嗚命神社【I-7】
大原野にある市役所の西谷サービスステーションの裏手には、鬱蒼たる社叢にかこまれた素盞嗚命神社があります。社叢はヒノキ‐モミ群落など3群で構成され、この社叢の中には樹齢400年を越える杉の巨木が2本あり、根廻りは7mにもなります。

Img_2078
休養村の横の道を行けばあります。
勉強不足ですみませんが、僕のイメージでは神社仏閣は南向きに建てられてることが多いのですが、この神社は西向きですね。ついた瞬間違和感がありました。
中に入ると、この神社は三社がまとめられた神社だそうです。もうちょっと詳しく見てくれば良かったのですが次に向った。

68・宝山寺【I-6】
十一面観音を本尊とする宝山寺には、疫病よけとしてお盆に行われる「ケトロン」という民俗行事があり、8月14日の夜、本尊へ献ずる燈籠を先頭に、ヒュー・ケー・トンの音頭で始まり、山門・参道・本堂前で念仏を唱えます。「ケトロン」という名称は念仏衆の持つ鉦や太鼓の音に由来します。

Img_2087
このお寺も古そうでした。この山門から急な階段が続いてます。
千刈水源地に抜ける抜け道からちょっと入る。

69・波豆八幡神社【I-6】
千刈水源地の北岸に誉田別尊(応神天皇)を祭神とする波豆八幡神社があります。源満仲の弟満政の創建と伝えられ、現在の本殿は応永10年(1403)に建てられたもので国の重要文化財。水源地に面して立つ石鳥居は応永32年(1425)のもので、三田市の酒垂神社にも同材、同形式のものがあります。

Img_2102
波豆八幡神社(はずはちまんじんじゃ)
ガイドマップの写真はこの古いお堂を守るように建てられてる覆い屋を撮ってありますね。
千刈水源地の横を通る道沿いにあります。道沿いの鳥居から池の方に下りて行くと古い鳥居があり、そこを上れば神社があります。
その昔小学校の時に遠足か自然学校の時かにここに来たことがありましたが、30数年ぶりに来ました。うちの子供は行ってないようなので最近は行かないようですね。
ほとんどここを訪れる人がない様子は行けば分ります。神社に続く道にこけが生えてて、誰も踏んだ様子がなかった。

70・波豆石造美術群【H-6】
八幡神社の境内のに西端に石造美術品の一群があります。これらは境内東側の斜面にあった金福寺に立っていたものですが、水源地を造る時に水没することからここに移されました。中央の板碑は高さ約4m、全国で2番目の大きさで、左右にある五輪塔・宝篋印塔とともに兵庫県指定の文化財になっています。

Img_2104
波豆八幡神社の横の土地に柵に囲まれて石造物が置いてありました。
この4メートルの石碑を中心に石造物が置いてあります。

71・波豆地蔵石龕【H-6】
羽束川にかかる橋のたもとに、将棋の駒形に加工された石に刻まれたお地蔵様がひっそりと置かれています。輪郭の部分に応永二十四年(1417)と彫られており、室町時代に作られたもの。板石で作られた厨子も造立当時のものです。

Img_2112
八幡神社から三田方面に行ったら橋があり、そこの手前にありました。
結構山奥に感じますが、昔からそこそこの数の人が住んでいたのでしょうね。まぁ長尾山さえ越えてしまえば西谷地区自体は盆地状に平坦な土地が開けてますからね。

72・千刈水源地【I-7】
桜の名所で知られる千刈水源地は、神戸市の上水道に水を供給するため、昭和初期に波豆川と羽束川を堰き止めて造られました。ダムの高さは42m、長さ106m、池の周囲は23kmにもなります。

Img_2109
神戸の水源ですね。バス釣りでも人気があると聞いてましたが、一組だけ見かけました。

73・普明寺【H-7】
三田に向う県道から千刈水源地に架かる橋を渡ると普明寺があります。源満仲にまつわる龍馬神の雨乞い伝説が伝わるお寺です。墓地に残る石造の宝篋印塔や笠塔婆のほか、持国天など四天王を描いた木製の厨子扉絵が県や市の指定文化財になっています。
Img_2114
波豆神社から石龕に行く途中に普明寺橋があるのでそれを渡ります。神社の向かいとあるのですぐ解るだろうと思ったらちょっと迷った・・・
一本道なんですが、湖岸にあるとおもって左側を見つつ進むと・・・・行き止まり!?
まさかの迷子・・・しょうがないので引き返すと、山側にこの石碑と急な上り坂が!
先で分かれ道になってますが、右の車用の急坂はまじ激坂です!左の道はおそらく昔の道で参道でお寺に登る急階段に出るのだと思う。どっちでも行けるはず。
最近チャレンジしようかと思ってる摂津の国三十三か所のお寺でもあるんですね。三十三か所巡りのためにまたここまで来るのはかなり大変やな~もうクリアしたことにしたい(笑)

74・武田尾温泉【I-8】
江戸時代に豊臣方の落武者であった武田尾直蔵が発見したと伝えられています。宝塚駅からJRでわずか10数分ですが、武庫川の渓谷美や四季折々の自然の美しさ、山菜料理やボタン鍋など魅力にあふれています。
Img_1064

武田尾温泉入口

Img_1066
駅の鉄橋付近.駅を越えて小さいトンネルを越えると武田尾橋があります。

Img_1251
駅から徒歩で武田尾温泉に行くにはこの橋を渡ります。

Img_1248
橋を渡らずにまっすぐ行くと別館あざれと足湯の看板があり、足湯の方へ行くと松の木にかこまれた小屋が見えます。

Img_1244
足湯

Img_1247
ハイキングの疲れを癒すおっさんの足。

やっとサイクリングがてら入り口まで行ってきました。途中、新名神高速道路の工事現場がすごい景色ですよ。
Img_1069

ここまでいってやっと下の桜の園がどのあたりにあるか判明した!
つくづくこの歴史マップはよくできてると思いましたね。
桜の園へ行こうと思うと必然的にJRの廃線跡をハイキングすることになる!
この辺りのハイキングコースとしてはよく取り上げられてますよね。
自分はまだ行ったことが無いのでこれを機会に行ってみようと思います。

ということで、廃線ハイキングにも初めて行って来た。せっかくなのでここで生瀬~武田尾ハイキングコースを紹介します。

Img_1159
JRの生瀬駅を降りると美女がお出迎え・・・はないです。
駅を出て右へさっさと向かいましょう。

Img_1161
駅を出て右へ進んでトンネルをくぐるとすぐにR176に出ます。
R176に出て左折、三田方面へ歩道を進みます。

Img_1165
中国道をくぐり

Img_1168
信号のある交差点まで来ます。ハイキングコースを紹介されてる記事では、この手前中国道を越えたところで道を渡り民家の間を行く方を紹介されてますね。
今回は遠足で経験済みの子供に案内役をお願いしたので、さすが遠足はちゃんと信号を渡るルートのようです。
真ん中のフェンスが切れてる細い道を入っていきます。

Img_1169
すると手前の道から来たルートと合流します。

Img_1170
先の急な坂を下ると川沿いに出ます。

Img_1172
上の坂を降りたところから左に曲がるといよいよ廃線に入っていきます。

Img_1174
警告を読んで同意して進みましょう。

Img_1175
ここから廃線始まりですね。廃線なので平坦でわりと歩きやすいです。

Img_1184
川沿いを行くといくつかトンネルをくぐります。

Img_1185
トンネルの中は照明が無く真っ暗なので懐中電灯は絶対に必要です。

Img_1192
山の景色や

Img_1193
武庫川の渓流の景色を楽しめます。

Img_1201
鉄橋は閉鎖されてますが

Img_1202
横のサービスロードを行きます。

Img_1204
武庫川を渡ります。

Img_1207
8月の大雨で土砂崩れがおきてました。
ここは注意して越えましょう。
この先に下の桜の園がありました。

Img_1255
トンネルと鉄橋の上にある武田尾温泉から帰りましょう。
廃線跡のハイキングコースは2016年にJRと西宮市で話がついて、ハイキングコースとして整備されることになったようです。そのため一時的に通行禁止になります。

75・桜の園【I-8】
水上勉の小説「櫻守」のモデルとなった笹部新太郎氏が、明治45年以降、桜の品種保存や接木などの研究を行った演習林です。当時は山桜など30種、5000本以上が植えられ、研究室と宿泊所を兼ねた小屋は「亦楽山荘」と呼ばれていました。現在、自然公園として手軽なハイキングコースにもなっています。
Img_1213

上の廃線ハイキングコースの途中に桜の園があります。

Img_1215
桜の園も周回できるハイキングコースとして整備されています。
せっかくなので廻ってみました。

Img_1228
このような案内看板があるので解りやすいです。
今回は反時計回りで廻りました。入り口を上ってもみじの道の方へいきます。

Img_1220
このような山道になります。

Img_1227
小さな川を渡る

Img_1230
途中休憩用の小屋があった。

Img_1233
桜の道に入り入り口近くはこのように桜の木がたくさんありました。

【宝塚】たからづか歴史散歩:ガイドマップ「街道・道標」

巡礼街道・道標

たからづか歴史散歩ガイドブックの街道筋と道標の紹介です。

たからづか歴史散歩①
たからづか歴史散歩②
たからづか歴史散歩③

たからづか歴史散歩④もどうぞ

改訂版が出てます。変更箇所はこちらを見てください。

グーグルマップ にポイントを落としてますので参考にどうぞ。マップの街道筋は、今も道路が残ってるところもありますが、道筋が変っていたり道が無い部分等は想像で線をひいてる部分もありますので、参考までにしていただければと思います。

    宝塚市の街道と歴史的遺産
宝塚市には数多くの歴史的遺産が残されていますが、古くは弥生時代の遺跡や本市の地名のもとになった古墳が数多く残されております。特に長尾山系は前方後円墳の万籟山古墳や、中国呉の年号が記された銅鏡が出土した安倉高塚古墳、八角形を意図して作られたと考えられる中山荘園古墳や、大きな家型石棺が納められた中山白鳥塚古墳など多くの古墳が作られています。仁川や西谷地域でも古墳が見つかっています。また仏教文化も早くからもたらされており、宝塚で最古の古刹である中山寺には木像十一面観音菩薩立像をはじめ数多くの文化財が残されています。また、清荒神清澄寺にはご本尊の大日如来坐像などがあり、幕末から明治にかけての画家・富岡鉄斎の作品を集めた鉄斎美術館「聖光殿」も有名です。小林の平林寺も古くから開かれたお寺で多くの塔頭がありました。中世以降この地域一帯は摂津多田源氏の支配下となり、北部の西谷地域を中心として仏教文化の影響を受け様々な石造美術品が作られました。また小浜は明応年間(15世紀末)に浄土真宗の寺院である毫摂寺ごうしょうじを中心として栄えた町で、江戸期には交通の要衝として栄え「小浜宿」として西摂地域の重要な宿場町となりました。特に、江戸時代以降は人々の往来が多くなり巡礼街道や西宮街道、有馬街道などが発達し、物資の搬送や交流が盛んになりました。宝塚市域には中山寺や清荒神清澄寺などへ参詣する人が多く、そのため百基近くの道標が残されており、なかでも安倉姥ヶ茶屋の寛文八年銘の道標は兵庫県下で最古の道標として知られています。また長尾山系は良質の土壌で植木産業が盛んで特に山本付近は日本三大植木の産地として有名です。明治期になると、宝塚では近代温泉が発見され阪鶴鉄道(現JR宝塚線)や箕面有馬電気軌道(現阪急宝塚線)の敷設によって大阪や神戸から湯治客が多くやって来るようになりました。大正3年には新温泉で少女歌劇が発足し、その人気が高まるに従って全国的に有名になり、「歌劇と温泉の町」として発展していきました。世界的な漫画家・手塚治虫は宝塚で幼少時代を過ごし、多感な時期に宝塚の自然や文化に触れ、彼の作品に多くの影響を与えたとされ、このことから本市に手塚治虫記念館が設置されています。宝塚市は昭和29年に市制が施行され、その後、住宅レクリェーション都市として発展しましたが、平成7年1月の阪神淡路大震災で一時期人口が減少しました。このように宝塚市の歴史の発展とともに数多くの文化的・歴史的遺産が残されてきましたが、今後も受け継いだ遺産を次世代へ継承しなければなりません。このガイドマップを参考に宝塚市の歴史遺産にふれていただければ幸いです。

巡礼街道
勝尾寺(箕面市)~平井~山本~中山寺~川面~生瀬~(西宮市)~清水寺(社町)
平安時代、花山法皇により創設されたと伝えられる観音霊場めぐりで、和歌山県那智の青岸渡寺を1番札所とし、岐阜の華厳寺を結願札所とする西国三十三所観音霊場の道。中山寺は24番札所で23番の勝尾寺から25番の清水寺に至る道筋が残っています。江戸期以降民衆の巡礼の増加により市内には多くの道標が残っています。

京伏見街道
京都~伏見~山崎~郡山~瀬川~半町~池田~加茂~小浜~生瀬~名塩
慶長十年(1605)の国絵図などに描かれた古い街道の一つで、京都との交易に使われた道筋。片桐且元によって出された慶長十一年の触書によって小浜が「馬継ぎ箇所」として規定されました。絵図には一里塚なども記されています。

丹波街道
伊丹~口谷~満願寺~多田~丹波篠山
酒造りの季節職人である杜氏や炭、杣、山菜、丹波焼などの日用物資を運んだ道筋で、市内を南北に抜ける数少ない道筋です。

西宮街道
西宮~大市~小林~伊孑志~小浜~生瀬
灘五郷の西宮へ米や酒、年貢などを運ぶための道で、馬に荷を運ばせたことから「馬街道」の名もあります。小浜と西宮の間で荷継ぎの権利をめぐって江戸初期には論争も起きています。小浜は江戸期酒づくりでも有名でした。

有馬街道(有馬三田往来道)
大坂~伊丹~安倉~小浜~米谷~生瀬~船坂~湯山(有馬)
古くから知られた有馬温泉への湯治の道で『日本書紀』舒明天皇三年(631)の条に有馬行幸の記事が見えます。本願寺の蓮如がこの道を利用し米谷(舞谷)を通り有馬へ行った記録があり、豊臣秀吉も有馬湯治の際にこの街道を通過した可能性があります。

道標1 小林の寛保二年銘道標
平林寺参道の分岐点に立つ道標で、寛保二年(1742)の銘があります。正面に平林寺本堂と右側に西山道と西宮への抜け道が示されています。
Img_1993
逆瀬川から小林に向けて西宮街道を通ってたらありました。西宮街道も初めて通りましたね。もうひとつ線路に近い側の道が旧道と思ってましたが、もっと古い街道筋があったのですね、いろいろ発見があります。ほんとに旧道なので自転車が一番いいです。

道標2 塩尾寺観音道道標
旧県道と塩尾寺参道の分岐点に立つ道標で、塩尾寺への十八丁の距離を指しています。
Img_0060
南口から逆瀬川の方へ抜ける道沿いにありました。

道標3 湯本町の塩尾寺参道丁石
塩尾寺参道15丁を示す道標が2本並んで立っています。一本は明治32年、もう一本は大正元年に立てられたもので、大坂の商人の寄進によるものです。
Img_0205
宝塚温泉の交差点から細い道をちょっと登ったところにありました。
甲子園学園方面に行けばいいです。

道標4 月見橋付近の道標
月見橋を渡ったところに2本並んで立っています。1本は宝塚大黒をもう1本は宝塚不動尊を示しています。不動尊をしめした道標の丙子三月は昭和11年と考えられます。
Img_0053
先ほどの道をどんどん登っていきます。このあたりは閑静な住宅街になってるんですね。
しかし温泉街からはかなり急な上り坂になります。月見橋を越えてすぐにありました。

道標5 塩尾寺参道の石燈籠道標
塩尾寺の参道休憩所にある道標で、石燈籠の下に大阪高砂屋の願主があり、天保15年(1844)の銘があります。もと宝塚南口にあったものを移動したものです。
Img_0216

塩尾寺へ登る道をどんどん登るとちょっと開けた公園のようなところが休憩所です。休憩所に向かって右側にある灯籠がこれです。ここも知らなかったですがものすごく見晴らしがいいところです。

道標6 巡礼街道沿いの道標
正面に「願主若林嘉兵衛」左に「すく中山寺」右面に「右荒神道」とあります。若林嘉兵衛は灘の酒屋で、このほかにも同人が立てた数本の道標が残っています。
Img_187406_2_2

売布神社から旧橋本関雪邸の前の巡礼街道をさらに進むとあります。ちょっとわかりにくいですが、このマップを気にしながら歩くと関係ない石碑も気になってきますので大丈夫でしょう!

道標7 中山寺山門前安政二年道標
中山寺の山門前に西国巡礼の「花山院五里半」と刻まれた道標で、安政二(1855)年の銘があり、またこのそばに「清荒神王道十二丁」の道標がならんでいます。
Img_173707
「花山院五里半」と書かれてます。隣に「清荒神王道十二丁」の道標があり、その横にも2本ほど石碑がありますが、いちばん左がそれです。
@中山寺山門前

番外:「宝塚 清荒神 道標」
Img_1750
さきの道路元標の向かい側にこれを発見。字体もきれいしはっきりしてるので、最近作られたものか?よく見れば市内には結構道標があちらこちらにありますね!
宝塚文化財資料:たからづかの道標に載ってました。やはり比較的新しいものようです。

道標8 中山寺華蔵院庭内道標
永正14年(1517)に立てられた丁石を天和三年(1683)に道標に再利用したもので、「右ハきよ水、左ハひょうご道」の銘が背面にあります。市内最古の丁石で宝塚市指定文化財。
Img_182808
裏側に「右ハきよ水、左ハひょうご道」銘がある。ほとんど判読不能でした。
さぁこれが問題の石碑です。今回はガイドマップをもとに目的地をさがしていきますが、ガイドマップの⑧を頼りに探したけど見つけることが出来なかった道標です。
ガイドマップの⑧の場所は中山寺山門のちょっと西な感じなんですよ。道標なので当然道沿いにあると思って何度も付近の巡礼街道を行ったり来たりしたんですが発見できず、家に帰ってからガイドブックの説明をよく読んだら「華蔵院庭内」と書いてあるではないですか!

Img_1831
華蔵院は中山寺の山門を入ってすぐ右側のお寺です。そこに行けばあるのか、と思い後日探しあてました。しかし華蔵院の中に入ってもすぐには見つけることが出来なかったです。うろうろしてやっと見つけました。
@華蔵院を入って左ななめの場所です。わかりにくいです。

道標9 中山寺奥の院への丁石
中山寺の西の墓地付近から奥の院へいたる十八丁の間に1丁(約100m)おきに18本の道標が立っています。享保19年(1734)に辰巳休海によって立てられたものです。また信徒会館の西に「左本山道是ヨリ十八町」の道標があり同一人によって立てられたものです。
Img_184309
@観音茶屋の裏です。
「左本山道是ヨリ十八町」このすぐ右手にあるはずなんで探しましたが見当たらないです。
すぐ奥に見える施設を作るために移設されたんではないかと思います。

道標10 巡礼街道沿いの道標
中山寺を示す大きな道標で、「すぐ中山寺道」と大きな字で記されています。宝暦三年(1753)の銘があり、妙玄寺の法界石とともにしだれ桜のそばにあります。
Img_172210
以前は民家にあったようです。
「すぐ中山道」と見えますね。右にちょっと見えてるのが妙玄寺の法界石。

道標11 丹波街道沿いの道標
巡礼街道と丹波街道の分岐点に大坂御瀧講の人々によって立てられた道標があります。右側には最明寺まで八丁の道程が示されています。
37img_0807

前は何度探しても見つからなかった!と書いてましたが、「たからづかの道標」でも当然紹介されていて、その付属の地図の方が解りやすく発見できました。
完全に民家の敷地に取り込まれてる感じです。
そしてこの画像の手前に埋もれてる道標があります。

38img_0811

これです。もうまったく文字は判らないですね・・・

番外:現代の標識
Img_1736
巡礼街道沿いには市によって建てられたと思われるこのような標識が時々設置されてます。方向と距離が書いてあるのでとても参考になります。

道標12 切畑山中の満願寺への道標
満願寺へいたる丹波街道沿いにある道標で、満願寺へ至る正道と大道が阿弥陀如来を示す梵字の下に端正な文字で示されています。

平井山荘からから満願寺に抜ける山道にあるはずだけど、見つけることができなかった。

道標13 満願寺の天保六年銘道標
丹波街道の途中にある道標で、昭和49年谷に落ちていたのを見つけ引き上げました。天保6年(1835)の銘があり正面に「右満願寺多田 左たん者みち」とあります。たん者は丹波のことです。
Img_9790

満願寺からちょっと西に行き井植山荘の看板の方に行けばあります。
Img_9792

右満願寺と見えますね。

道標14 旧和田家住宅内道標
もと小浜の東口にあったもので、「右西の宮 兵庫道」とあり弘化三年(1846)の銘があります。和田家ゆかりの和田源右衛門が造立したものです。
Img_0370

旧和田家の庭の奥にあるので、和田家の管理人の先生に案内してもらいましょう。その時にいろいろ話をきくとよいでしょう。

道標15 小浜皇大神社前道標
小浜から清水寺へいく道筋に建てられた道標で、「右きよ水」とあり、周囲に干支と願主の干支が書かれています。
Img_2067
皇大神社の写真にも映ってますね、神社の入り口の右側にあります。
清水寺とは社町の播州清水寺です。

道標16 小浜宿資料館内道標
もと小林3丁目にあった道標で、小浜から西宮に向かう街道沿いの道標で、元禄15年(1702)の銘があり、左側には小浜と有馬方面への案内があります。また、もう1本の小林にあった道標は有馬道を示すものです。
Img_0343

小浜宿資料館の中の更に中庭のようなところで、資料館の先生にお願いして見せてもらわないとだめです。
Img_0348
もう1本と書いてありますが、ここには他に3本あります。説明書きの有馬道の道標は右の道標だと思われます。
あとの2本は宝塚の道標にあるものだと思われます。


道標17 小浜の元禄十五年銘道標
正面に「従是右昆陽寺行」右側に「きょうき与尼崎江」とあります。きょうきは行基のこと、元禄十五年は1702年。平成8年の道路工事の際、地表下から出土したものです。
Img_1933
小浜の交番の南です。
この歴史マップではこちらの新しく発見された道標を紹介してるのですね。
「たからづかの道標」に紹介されてるのは、このすぐ北側交番の前にある道標です。

道標18 小浜の西宮街道沿いの道標
小浜南口から首地蔵に向かう角にあり、伊孑志を経て西宮へむかう道筋が示されています。貞享四年(1687)の銘があります。
Img_189418_2

小浜小学校から首地蔵の方へ曲がる角にあります。道路を新しくした時にだいぶ埋まったようですね、下の方は読めないです。

道標19 安倉の享保21年(1736)銘道標
有馬街道が宝塚市へ入った場所に所在する道標で、天神川沿いに右へ行くと中山への近道を、左へ行くと小浜、有馬方面を指しています。
Img_169619

@天王寺川を渡る手前です。

道標20 切畑の四つ辻道標
矢印で、正面に「武田尾四十丁」左側面に「いぶち銀山ひろね」とあります。芝辻新田にも同一人によって立てられた道標があります。
Img_2073

この石碑も問題でして、切畑の四つ辻は新名神の接続道路の工事で拡張されてます。その工事に伴って邪魔になったのか道路には道標が見当たりません!そこで近くを探して発見しました。
このことを直宮先生に伝えたら、なんと市の方では行方不明の状態だったと!僕の方が先に発見していたようです!
また元通りにしていただけるといいのですが。

Img_2074

横倒しになってますが、はっきり「たけだを」と読めますね。

心配だったこの道標の状態ですが、現場の新名神建設に伴う道路工事もほぼ終えて、無事に歩道に再び設置されていました。
75img_1070

交差点の北西角になります。
75img_1071

方向もちゃんと合ってるようです。
無事戻ってほんとによかったです。

道標21 長谷大池畔の道標
正面に南無阿弥陀仏の刻印があり、「右ながたにさそ利」「左たかひら三田」とあります。出雲出身の行者が建てたものです。
79img_1083

道標22 西国三拾三所供養道標
寛政四年(1792)に建てられた板碑状のもので、正面に「右さそりむつのせ」「左はず川」とあり、三田の木器に至る道筋にあったものです。寛政4年(1792)の銘があります。

さあこの道標も問題です。切畑の道標同様この道標があるべき場所も道路工事中でして、周辺を探しても見つかりません!こちらも直宮先生のほうで工事中に無くなったものと認識されてるようです。しかし市の道路工事なのにかなりいい加減なことをしてるのには呆れるよりほかありませんね。アスファルトと一緒に産廃処理しちゃったんでしょうか!?市内の遺産をなんと思ってるんでしょうか!

道標23 大原野の文化十年銘道標
波豆から大原野~銀山への分岐点にあり、正面に「右池田伊丹、左多田院妙見」とあります。背面には力士の四股名「常磐山」の銘が入っています。文化十年は1813年。
Img_2083
右池田 左多田 の文字は見えますね。

道標24 波豆の文久三年銘道標
千刈ドライブインの庭内にあるもので、正面に「右清水、三田道」右に「すく妙見」とあります。「すく」は[まっすぐ]の意。文久3年は1863年。

こらは千刈ドライブインの庭内にあると書いてあります。ドライブインは石龕の手前の食堂だと思うのですが、営業中だったので、ずかずか入る勇気がなかったのでまたの機会に・・・

道路元標A 小林の良元村の道路元標
大正8年の道路法施行令によって定められたもので、武庫郡良元村のものです。道路元標は里程を定める基礎となっていました。
Img_2160

小林会館の入り口付近にあります。

道路元標B 泉町の小浜村の道路元標
内務省令により幅25cm高さ60cm、頭部はアーチ形ときめられましたが、川辺郡のものは頭部の先端がやや尖っています。
Img_1903
小浜宿の東口からそのまま東へ行き中国道をくぐった先です。

道路元標C  中山寺前の長尾村道路元標
旧川辺郡の道路元標は川西や猪名川町のものも含め、内務省令の規格と異なるものが多く、その原因はよくわかっていません。
Img_1747c
明治時代の道路法によって建てられたものだそうです。まだ新しいから字も判読できますね。
@中山寺山門のすぐ西側トイレ前

道路元標D 大原野の西谷村道路元標
阪神間で明治22年4月に定められた旧四村全域で道路元標が遺存しているのは宝塚市だけです。
Img_2084
道標23と並んで立ってます。明治時代に建てられた石碑なので字もはっきり見えますね。
この道標の位置はガイドマップではどこかわからない。神社からは勘で行きましょう!
神社の西の道をちょっと北へすぐです。宝山寺に行く道沿い。

まだ数カ所行けてないですが、だいたいは紹介できたかな。

道標に関しては、結構現代の道路工事に置いて粗末に扱われて、紛失するケースが多くあるようです。
工事する人にとっては、ただの石造物なんでしょうね、残念です。
しかし公共工事なので、市の担当者が放置してるのは納得できないな~
逆に民家や市に保存されてた道標を小浜宿資料館等に移設保存するということも行われていて、いいことだと思います。

それでも宝塚市は”宝塚歌劇”によりかかり過ぎで、もっと古い歴史遺産についてはものすごく手薄な気がするので残念です。

2014年7月 7日 (月)

安威川をサイクリング

安威川沿いのコースを紹介していきます。

安威川は吹田市の南高浜町と東御旅町、東淀川区の相川付近で
神崎川に合流します。

安威川沿いのコースは神崎川の右岸を走って行くとそのまま入って
いけます。

では神崎川、吹田大橋付近から走りだしましょう。

Img_1451
吹田大橋の南側から。

Img_1453
高浜橋

Img_1454
高浜橋を越えた安威川と神崎川の合流付近。
対岸の神崎川の左岸を走っていけばこの先ですぐ
淀川右岸に出ます。

Img_1455
ここはまだ神崎川で黒い舗装。

Img_1456
ちょっと行って安威川に入ると管理が変るのか赤い舗装になる。

Img_1458
阪急相川駅付近の新京阪橋。

Img_1459
新京阪橋をくぐった所は河川敷公園になっていて、200mほど
土の上を走ります。
たしかこの左に仮設トイレがありました。

Img_1460
阪急京都線をくぐったあたり。
吹田市川園町付近。カーブを曲がった所で土手に上がる
スロープがある。

Img_1461
そのスロープを上らずに行くと行き止まりになります。
大阪学院高校のところです。
階段を自転車を担いで土手に上がります。

Img_1464
土手に上がった所。
ここからつぎの小さい川のところまでは土手上の道を走ります。

Img_1953
小さい川沿いに左に曲がり、橋を渡ると塩野義製薬沿いに出ます。
ここの付近だけインターロッキング。
先に見えるのは鳥飼大橋。
鳥飼大橋をくぐり、鶴野橋を渡って川沿いを行きます。

Img_1955_2
ちょっと行って高架道路の下をくぐると下水処理場の土手側
に出ます。
この砂利道をちょっとだけ進むと下に道が見えます。


Img_1956_2
下は舗装道路で、なんかいけそうなので担いで下りてみます。
このあたりから茨木市になりますね。

土手の下を走るので川の匂いが若干気になるかな。

Img_1957_2
自転車道路として整備されてるようではないので道はそんなに
よくないですが走れます。
この辺りは流通センターと北部市場付近です。
JR貨物線をくぐった所。


Img_1958_2
土手の下を走ってると土地勘も無いのでどこの辺りか判らない。
ストリートビューで確認すると野々宮2丁目付近のようです。

Img_1959_2
ここも野々宮2丁目付近ですね。
道路の舗装はこんな感じ。
粗いのと割れたりしてますが砂利じゃないので走れます。

Img_1961_2
玉島、平田付近。先に見えるのは茨木ゴルフセンター。

Img_1962_2
星見町付近。

Img_1963_2
五十鈴町付近、対岸は東雲中学校。
先のマンションはジオ茨木学園町。

Img_1964_2
阪急京都線手前。

Img_1965_2
JR京都線手前。

Img_1966_2
安威川と茨木川の合流付近。
このまま道なりに左の川は茨木川になります。
安威川は右の方になります。

Img_1967_2
そのまま左に茨木川沿いに行ってみます。
先は府道15号線田中橋、これをくぐって行きます。

Img_1970_2
次に見えるのは国道171号線。

Img_1969_2
R171の下まで行くとついに行き止まりでした。

ここで上に上がり安威川の方に行けば更に土手上を走れ
ますが今回はここまで。

吹田の神崎川分岐から茨木川に入ってR171まで川沿い
でいけます。
サイクリングロードとしてはあまり人気が無いのか自転車乗りと合うことはほとんどないですね。

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ