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2013年8月

2013年8月31日 (土)

【MOTO GP】第11戦 チェコ

もうヤマハファンには絶望感が・・・

マルケス速過ぎですね、いろんな人が言い始めてますが、ルーキーなのに“ストップ・ザ・マルケス”です!
今年は”最年少”や”ルーキー”での最高峰クラスの記録がつぎつぎ塗り変えられてますね。
バレンティーノは生きるレジェンドと言われてきて、まさに伝説をオンタイムで見てきた感じがありましたが、マルケスもすでに生きるレジェンドになる資格がありそうな気がしますね。
125やMOTO2時代の走りも圧倒的ですごかったですからね。

最年少やルーキーの記録では現れないので、まだその名前を言う人はいないですが、マルケスの走りを見てたら、全盛期のミック・ドゥーハンを連想してしまいます。
ミックの全盛時代のGPはミックが完走すれば優勝という感じでしたからね。
もういまから連勝記録とか年間最多勝とかを調べておかないとだめなんじゃないでしょうか。

レースはブルノはヤマハのマシンにあってると自ら言っていたロレンゾがスタートか飛び出してラップリードを続けますが、残り7周からマルケスが仕掛け、2周ほどロレンゾとマルケスが何度か順位を入れ替えますが、最後にマルケスが前に出てからはそのままチェッカーへ。
ロレンゾはその後ペドロサにも抜かれ3位へ・・・ロッシは今回も追い上げで4位へ。

自信を持って臨んだレースで完敗するとショックは大きいですね。もうまともに行った時にはマルケスを止められないのか?と思ってしまいます。
このままいっちゃうと、現時点でポイントリーダーのマルケスが、ルーキーで最高峰クラスのチャンピオンになってしまいますよ!

MOTO2は中上君がまたやってくれましたね。今回は3~4位辺りでレース終盤まで様子を見て最後に仕掛けての2位ゲット。着実にスキルアップしてる感じがしますね。
予選での一発出しもできるしレースでの駆け引きもできるようになってきたので、中上君には今年中に何とか初優勝をしてほしい、日本中が待ってますよ!

2013年8月21日 (水)

飛鳥を掘る

飛鳥を掘る:河上邦彦

実際に飛鳥を発掘調査されてる先生が実際に発掘に携わったものも含め、飛鳥の中にある遺跡をいろいろな方向から検証しておられます。

先日読んだ石部先生の本はかなり硬い感じで、形式論的な感じの本でしたが、河上先生は出土遺物の厳密な分類というよりも、文献史学や当時の飛鳥人の宗教観なども考慮に入れた解説があり、よりわかりやすいです。

やはり考古学はいくら発掘遺物をどう考えるかという学問であっても、その当時の人の生活や宗教観的なものも踏まえたうえでないと、見た目の形だけで形式分類してもそれだけでは見えてこないような気がしますね。
特に古墳のような人の死という究極の宗教観をあらわすものを論じるのに、その形が”帆立貝式”か”前方後円”か”前方後方”か”八角形”かだけで分類するのではなくて、なぜそういう形を選んだかという宗教観から分析しないとどうしようもないと思う。

そういう意味で、河上先生は道教や神仙思想、風水などを絡めて飛鳥の古墳を述べておられて、面白かった。
とくに、野口陵墓古墳、いわゆる天武・持統陵を頂点に藤原京の西南方面に”陵域”が設定されてる、という説は初めて聞きましたが、なるほどと思いました。
ここはよく南に直線的に古墳があることから”聖なるライン”などと呼ばれたりしてますが、そうではなくて、宮廷の対角に墓域を設けてあるとの説明のほうがしっくりくると思う。

飛鳥にはなぞの石造物と呼ばれてるものがたくさんありますが、猿石等の石造物は、苑池に飾られていたのではと書いてありますが、その通りという感じがしますね。

この本が2003年発行なのでそれ以降の大きな発掘成果が反映されてないのが残念です。酒船石の北側の石垣と亀型石造物とが一体の施設だというところまではいってないようですね。
その亀型石製品については河上先生は”亀”ではなくて”すっぽん”だと、いろんな例を挙げておっしゃってます。これはちょっと僕には分らなかった。甲羅がくぼんでるところとか、足の先の表現が”すっぽん”だと、そいうことらしいですが、僕には亀に見えました。
この辺の”亀”か”すっぽん”か?というような細かい論争はやはり解決が必要なのでしょうか?

ちょっと話は違いますが、弥生時代の銅鐸等に絵が描かれてます、その”水鳥”をめぐって先生方の間では”鶴かサギか”で意見が分かれてるのを見たことがありますが、古代人が”白い鳥”を鶴とサギを明確に区別してたのかどうか?現代人でも鳥に詳しくない人は鶴もサギもこうのとりもときも、みんな白鳥で片付けると思うんですが・・・

飛鳥板葺宮跡遺跡は最近村長さんがその上に宮殿を再現して復元遺跡にしようなどと言い出してますが、はっきりと当時の建物がどうだったかわからないのに復元などできないでしょうに!想像で復元しちゃうより、いまの石垣のままで、訪れた人が想像するのでいいのではないかと思いますね。無理に工事して変な建物を建てると雰囲気が台無しになる気がしますが。

また飛鳥に行きたいですね。

2013年8月20日 (火)

【MOTO GP】第10戦 インディアナポリス

約1カ月の夏休み明けで、ペドロサもロレンゾも身体はほぼ大丈夫な状態で戻ってきたようですね。

しかし、驚異のルーキーマルケスはもう誰にも止められないのか!?
このインディアナポリスではMOTO2時代から連勝中のマルケスはMOTO GPクラスのモンスターマシンでも全セッションでトップタイム!
もうマルケスがルーキーだということは忘れないとだめですね、お手上げです。
決勝はスタートでちょっと出遅れて3番手になったものの、エースのペドロサ、そして王者ロレンゾを相次いでパス。そこから後半戦はマルケスの独走ぶっちぎり!
ロレンゾは最後にはペドロサにもストレートでパスされて3位に・・・
ヤマハ陣営は苦しくなってきましたね。
レースはその後ろ4位争いが熱かった!最初から最後までクラッチローとバウティスタが激しくやりあってるところに、終盤なんと3~4台かわしてきてロッシが加わります。
最後の数周は3台での大バトル。これは見ごたえありましたね。3人ともすきあらば突っ込んでくるし、ひかないし!
ラストラップの最終コーナーでむりくり前に突っ込んできたロッシがなんと4位に!この辺はベテランの味でしたね、結構強引な感じでしたが。
その後ろのドゥカティワークス同士の争いがこれまた熱い。画像が切り替わったと思ったら、最終コーナーで2台とも縁石でジャンプ!!やり過ぎですね、その間に漁夫の利でまんまとスミスが7位に!ドゥカティ陣営はがっかりでしょうね~
あいかわらずアレックス・エスパロガロはCRT勢のトップでチェッカーですか。ここまで安定して速いともう来季の話もまとまりそうなのにまだ発表がないですね。
こんなことは言いたくないですが、ヤマハファンとしてはもうマルケスにはどこかで転倒ノーポイントになってもらうのを願うしかないのか!?

MOTO2は中上君がやってくれましたね~と言いたいところですが、もうちょっとでした・・・
次にお預けですね。
スタートで飛び出してラスト2周くらいまでトップを独走。
これはいけるかも!?とドキドキしながら、しかし、レースは最後までわからんしと、冷静に応援してたんですが、まさかのラバトにやられちゃいましたね。非常に残念でした。
本人も初の2位を喜ぶよりも、勝てなかったのを悔しがってたので、もういけるでしょう!
中上君イッテください!
今回の中継はほんとにノビ―で良かったわ。これが琢磨くんやったらもう最初から最後まで”中上選手もうこれは勝てるでしょう!”みたいなわけのわからんハイテンションな実況になってうざいことになるの間違いなしですからね。いちいちユーキ選手に触れないしこれからもノビ―かカズートでMOTO2も解説お願いします。

ちょっとずつですが2014シーズンのストーブリーグも決まりだしましたね。
先日も書きましたがクラッチローはドゥカティワークス、席を譲ったヘイデンはLCRで市販?RCVを走らせる話を中心に他にも話があるのかな。
フォワードレーシングはヤマハのM1のエンジンだけではなくて、車体もセットでレンタルするようですね。ECUだけマレリに換えた仕様のM1。ライダーもエドワーズがそのまま契約延長決定ですね。
ヤマハはエンジンだけのリースと聞いていたので、車体もこみというのはびっくりです。これだとホンダの市販RCVよりいいんじゃないでしょうか。宮城さん情報だとヤマハはECUだけマレリの共通仕様にしたマシンをもう走らせてるようなので、これは期待が大きくなりますね。
しかしホンダとヤマハがエンジンのみではなくて、車体で供給するとなるとアプリリアはちょっと不利になるかな?現在のカワサキやCBRのエンジンは来年は走らないですねこれは。あとはドゥカがどういう形になるかですね。
これ来年はどういうクラス分けになるのでしょうか?CRTは今年で終わる、来年はワークス系と市販系の大きな違いは共通ECUを使うか使わないか、ということになりますね。
それに伴って燃料の使用量も違うわけですが、いままでのようにCRTクラス的な分け方をするのか、それとも同一クラスとして扱うのか。前にも書いたけどWTCCのように、市販系のチームはインディペンデントクラスとするのが僕としては良さそうな気がするな。
ここのところを早く発表してほしいですね。

契約の決まってない注目ライダーは兄エスパロガロ、ドプニエ、スピーズ、辺りでしょうか?

2013年8月13日 (火)

古墳は語る

古墳は語る:石部正志

この本は文化財保存全国協議会の機関誌「明日への文化財」に連載されたものをまとめたものになります。

文化財全般の中で特に古墳についてを取り上げてということですね。専門的な機関誌に連載ということで、素人向けではない感じです。
石部先生は考古学の学者らしく言葉や用語の定義について非常に細かく規定しようとなされてる感じですね。

たしかに一つの分類に名前をつけるときに、それの定義を決めることは重要であります。しかしあまりに定義に厳格であろうとすると窮屈な感じを受けますね。

今回は古墳についてですが、いろいろな言葉で定義を守られようとしてるので、他の本で古墳とされてるものでも、○○墳丘墓とされてるものが多いです。
それは古墳の定義が”古墳時代のお墓”とされてるからですね。だから弥生時代後半の塚状になってるお墓はすべて墳丘墓とされてました。
古墳時代は最後に”終末期古墳”とされる時期があるのですが、それも”終末期”という言葉は人間の終わりを意味する言葉なので相応しくない、”末期古墳”でいいといっておられます。しかしいままで読んできた本では普通に”終末期古墳”と書いてあるので、それでいいのではないかと思いましたがどうでしょう。

”箸墓古墳”については、白石太一郎先生に”箸中山古墳”はおかしいと指摘されたと書いておられますが、現地の地名、または現地の人が読んでる名前で、”箸中山古墳”で通されてます。
この部分は、たまたま先日読んだ白石先生の本で”箸墓古墳を箸中山古墳と飛んでる研究者がいるが箸墓でよろしい”と書いてあったので、このことを言ってるのだなと思いました。
この辺の名称は古代史の本を読んでると統一されてない感じは他の言葉でもよくありますね。
僕は”箸墓”でいいんじゃないかと思ってましたが、日本書紀に出てくる”箸墓”と決まったわけではないので、今のところは、箸中にある山のような古墳という意味で、”箸中山古墳”と呼ぶ方がいいのかなという感じがした。

2012年に出た本なので、最近の考古学の最新の成果をもとに書かれております。一つ画期的なのは、邪馬台国論争に終止符を打ってることですね。
はっきり巻纒遺跡が「邪馬台国」で決着がついたと書いてあります。
あと「邪馬台国」の読みも、「ヤマト」のあて字が邪馬台国であるから、「邪馬台国」はヤマトコクであるということです。

最後に古墳で大問題なのは陵墓指定です。これについては石部先生が大変努力しておられるようなので引き続き陵墓の調査ができるように運動を続けていってほしいと思います。
ほんとに陵墓指定は疑問も多いし学術調査を進めるべきだと思います。
古市、百舌鳥古墳群の世界遺産登録には反対であります。

2013年8月 5日 (月)

【宝塚】たからづか歴史散歩:ガイドマップ③

たからづか歴史散歩:ガイドマップの3回目ですよ!

③では41~56までを紹介していこうと思います。
地域はひばりが丘、小浜、安倉あたりです。

たからづか歴史散歩① 
たからづか歴史散歩②
たからづか歴史散歩④
たからづか歴史散歩:街道・道標
 
もどうぞ

改訂版 が出てます。変更箇所はこちらを見てください。

グーグルマップ にポイントを落としましたこちら からどうぞ。
道標・街道 マップも作りました。
マップの街道筋は、今も道路が残ってるところもありますが、道筋が変っていたり道が無い部分等は想像で線をひいてる部分もありますので、参考までにしていただければと思います。

最近ガイドマップを眺め、画像をチェックしグーグル等で地図を見ていろんなこと考えてるといろいろ気付くことがあったり、なんでだろと疑問に思うことが出てきます。
やっと気付いたのは、ガイドマップに載せなかった道標がある一方、なぜこれを載せてるのか?その意味は?と思ってたら、あえて近くにある道路沿いの道標ではなく、施設の中の道標を載せることでその施設の中にも立ち寄ることを意図してるんですね。
まぁ考えたら当たり前か。実際ぼくがこれで廻ってていままで入ったことのない施設にも行こうと思ってるだけでもこのガイドマップの作戦は成功ですね。
しかしここに載ってない道標がけっこう道端にあってすごく気になる!

その後、直宮先生にまた質問に行った時に宝塚のすべての道標の資料をいただいた、それもまた機会があれば巡ってみたい。

41・大宝寺【H-2】
曹洞宗のお寺ですが、創建など詳しいことはわかっていません。不動堂にある不動明王坐像は室町時代末頃のものと推定されています。また、境内にある宝篋印塔月輪内に胎蔵界四仏の種子を刻んだもので鎌倉時代末頃のものです。
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場所は平井2-16かな?山本駅から巡礼街道を東に行き丹波街道を左に上がっていくのですが、細い入り組んだ道でわかりにくいです。普通の地図も見ていくといいでしょう。

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宝篋印塔。

42・万籟山古墳【I-2】
4世紀頃に築かれた全長約54mの前方後円墳で、現在、雲雀丘ゴルフ場の敷地内に残っています。後円部には長さ6.8mほどの竪穴式石室があり、石室の床面には木棺が置かれていた跡がU字型に残っています。(非公開)

43・最明寺滝【H-2】
出家して最明寺入道と呼ばれた鎌倉幕府の5代執権北条時頼が、この地に庵を結んだといわれることからこの名があります。江戸時代に記された『摂津名所図会』にも景勝地として紹介されており、滝を見る人々の様子が描かれています。
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山本駅から山の方へ行き、川沿いを上っていきますが、登山道です。
満願寺から井植山荘を抜けて下りていっても行けますね。
登山道が途中で分かれてたりするからちょっと不安になるけど、下から行ったらわかりやすいかな?

44・井植山荘【H-2】
自然の美しさを生かしながら築かれた別荘で、三洋電機の井植氏の所有であることから「井植山荘」と呼ばれています。山荘内には『摂津名所図会』に足形石と記されている仏足石も残されています(非公開)。
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満願寺から行くと、ちょっと先にこんな看板が出てた。

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入れないのでここまで。
それにしてもあの三洋電機がいまは無くなってしまうとは、まさに諸行無常ですね。

45・満願寺【I-1】
多田に本拠をおいた源満仲が帰依して繁栄したという関係などから、寺地は川西市の飛び地になっています。境内の九重の石塔は国の重要文化財。裏山の自然林は瀬戸内沿岸の典型的なシイ林で宝塚市及び川西市指定の天然記念物になっています。
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満願寺入り口。地図にも載ってる有名なお寺さんなのでわかるでしょう。
阪急雲雀丘駅の東側の踏切を道なりに山の方へ上がっていくとあります。

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九重の石塔。

46・万年坂地蔵石仏【I-1】
雲雀丘から満願寺へ向かう途中の通称「万年坂」に、花崗岩の自然石に彫られた地蔵立像があります。鎌倉時代の後半に作られたものと思われる市内最古の地蔵像で市指定の文化財になっています。
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雲雀丘から満願寺の道を上がっていくと一段高くなってるところに大きな石が見えてきます。場所はちょうど宝塚大学の入り口すぐ手前ですね。宝塚大学も規模縮小?生徒募集停止ですか?

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大きな石に仏様の形が彫られています。

47・切畑群集墳1号墳【J-1】
雲雀丘から中山寺の辺りにかけての長尾山丘陵には、6世紀から7世紀にかけて群集墳と呼ばれる多くの古墳が造られ、この古墳もそれらの1つです。横穴式石室を持つ直径15mほどの円墳で、この地方の有力者の墓だと考えられます。
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さすがに途中からは押して登りました。満願寺の帰りにまた寄ってみた。
雲雀丘山手1、生成幼稚園正門横。

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石室入り口。

48・旧和田家住宅【F-4】
市内に残る最古級の民家で、江戸時代の中頃までに築かれ、角屋座敷や納戸構えなどの特徴を持っています。旧所有者の和田家は代々、米谷村飯野藩の庄屋をつとめ、多くの古文書が残されていました。その古文書の一部を展示しています。
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月曜が休館でした。和田家の中には管理の先生がおられます。建物の説明など親切にいろいろと教えていただけます。阪神大震災で傷んだようですが、江戸時代からそのままの壁なども残っていてすごいです。
中庭に道標の石碑があります。
有馬街道沿いで、小浜宿を抜けたところにあります。マピオンでは市立歴史民俗資料館となってますね。

49・とんかち館(小浜工房館)【F-4】
小浜は宿場町だけではなく、大工の町という顔も持っていました。このような歴史を踏まえ、陶芸や木工など手作業的な工房活動を行う場として、多彩な講座やイベントを展開しています。
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小浜は大工さんの街だったそうです。それでこういう施設があります。以前、まえを通りかかった時コスプレのイベントやってたな・・・
ちょっと中に入ってみた。入り口の横の事務所らしきところに人はいたけど別に入館者には興味はないようでした。パンフレット入れにはこことんかち館で行われている各種の教室の案内が置いてありました。
こちらは小浜宿の中、有馬街道沿いです。

このとんかち館は2016年度からは休館になるのかな。

50・小浜宿資料館【F-4・5
小浜は15世紀末に毫摂寺の寺内町として成立したところで、有馬街道、西宮街道、京伏見街道が交わる地点で、江戸時代には宿場町として繁栄し、酒造りや大工の町としても知られていました。資料館では昔の町並みの模型や大工道具などを展示しています。
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初めて中に入りましたが、小浜宿の歴史が分るような展示と、一部宝塚市内での発掘遺物も展示されてました。それと、近代の庶民の暮らしが解るような古い道具が展示してあります。展示してある物のほとんどは資料館のお隣の民家にあったものだそうです。
ここの中庭にも市内にあった道標が移動展示してあります。
管理の先生に言って見せてもらいましょう。

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西宮街道から小浜宿に入るところに大きな看板があります。

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小浜宿を通ると何軒かこんな感じで昔の宿の雰囲気が分るような街並みになっております。

51・毫摂寺【F-5】
浄土真宗本願寺派のお寺で「小浜御坊」とも呼ばれ、豊臣秀吉も有馬へ行く途中に立ち寄ったといいます。秀吉の甥の秀次は、このお寺の娘の亀姫を側室にしましたが、秀次が謀反の疑いで切腹させられた時、亀姫も京都で処刑されたとの悲話が伝えられています。
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ごうしょうじと読みます。小浜宿資料館の裏になります。
2014年に瓦の葺き替え工事してましたね。

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小浜宿資料館の先生が教えてくれたのですが、この石燈籠も元禄時代の古いものです。

52・皇大神社【F-5】
天照皇大神と天児屋根命を祭神とする神社です。境内には小浜戎もまつられており、1月の戎祭りには大変にぎわいます。市の保護樹木のムクは巨大なもので、秋祭りにくりだすだんじりも勇壮なものです。
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皇大神社は地元の戎神社として知られてますね。小浜宿の西側の筋にあります。
石燈籠の根もとにあるのが道標です。
ここが小浜宿の地域の西端側になりますが、この神社の裏が谷になってるのですよね。

53・首地蔵【F-5】
馬街道沿いの高台に首から上だけのお地蔵様があります。洪水の時に武庫川の上流から流れてきたとか、伊丹の殿様がおまつりしたものだとかいわれますが詳しいことはわかりません。首から上の病気に御利益があるといい、近年、「頭がよくなる」とされ受験生のお参りも増えています。
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小浜宿から西宮街道の方に下りてすぐ右に曲がっていくと出てきます。
首から上だけのお地蔵様です。この場所は道沿いにあるんだけど、道路より高いところにあって階段を上らないとだめです。
近くに看板は出ててわかりやすいけどお地蔵さんが見えないのでちょっと探しづらいかも。小浜5-1。

54・安倉住吉神社【G-5】
上筒男命、中筒男命、底筒男命を祭神とする神社で、天長二年(825)の創建と伝えられますが詳しいことはわかっていません。10月の例祭にはだんじりが出て、威勢の良いかけ声とともに町内を巡幸します。
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安倉中にあります。あまりにも地元すぎる!
この画像の反対側に道標がひっそりあります。

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安倉中2-10。

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市内を散策しているとこのような地元の地域を案内する看板が設置されています。これを参考に散歩するのもいいでしょう。

55・安倉高塚古墳【G-6】
古墳時代の前期(4世紀末頃)に造られた円墳ですが、戦前、道路拡張の際に半分が壊されました。その時に、川原石積みの竪穴式石室から赤烏七年(244)の中国・呉の年号が入った銅鏡などが見つかっています。
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この道が分かればすぐに見つけることができます。ここで出土した銅鏡は日本では2面しか出てない”呉鏡”で大変珍しいものです。現物はなかなか見ることはできないですが、レプリカは小浜宿にあります。安倉南1-4。
画像では緑のシートをかけていますが、現在は土の流出防止で表面を処理してあります。

56・寛文八年道標【G-6】
大坂・伊丹から小浜を通り有馬へ向かう道は有馬街道と呼ばれていました。この街道の伊丹と尼崎の分岐点に立っている通称「姥ヶ茶屋」ばんがちゃやの道標は、寛文八年(1668)のもので、兵庫県下で最も古い道標の1つです。
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寛文八年道標は右の祠の中にある奥のちょっと背の高くなってる石碑です。
宝塚の史跡めぐりは、この祠の右奥に道標の説明板があるのだけど、石碑が見当たらなくて、役所に聞きに行ったのが始まりです。
昔見た時は説明板のすぐ横に石碑もあったのですよ、しかし現在は道路を広げた時に現在の場所に移動したようです。そして説明板と離れてるので知らなければどれが道標か判らないと思います。

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説明板
昔はこの説明板のすぐそばにあり、祠もなくむき出しで、横の「みぎ あまがさき」「ひだり いたみ」の文字も見えた記憶がありますが、今は祠の中にあるので読めないです。
安倉南4-13。

2013年8月 3日 (土)

【MOTO GP】ついにクラッチローはドゥカ!

ついに発表になりましたね~カル・クラッチローはヘイデンのあとにドゥカティ・ワークス入り。

なんとなくクラッチローのワークス願望が強いという話が流れていたのでこうなることは予想できましたが、ヤマハが全力で引き留めにかかってるという報道もあったのでちょっとは期待したんですが、やっぱりドゥカに行っちゃいますね。

今までもそうだけど、今年はクラッチロー自身がワークスのロッシの前を走ってしまうほど調子がいいので、ドゥカティのマシンより全然成績は今のままヤマハに乗る方がいいと思うんですけどね。
現に、去年のチームメイトで去年はクラッチローより成績が良かったドヴィジオーゾは一足先にドゥカに移って、クラッチローの前を走ることができない。それどころかヤマハのルーキーのスミスとバトルしてる!これはクラッチローが来年行ってもすぐに改善するとは思えないんだけどな~
これでまたクラッチロー&ドヴィジオーゾのコンビ復活ですね。

やっぱりワークス待遇はギャラから扱いから、なにからなにまで違うのかな?
さすがにロッシとクラッチローをスイッチするというのは、ロッシがテック3に行くことを飲まないだろうしね。しかしクラッチローのヤマハ離脱は痛いですね。

さぁそのクラッチローのあとにはポル・エスパロガロが加入!この時期に発表とは早いですね。まだ兄エスパロガロの移籍話が決まってないのでちょっと意外でした。

スコット・レディングもMOTO2卒業は既定路線なんで、14シーズンどういう体制で走るのか楽しみです。

来年はCRTがなくなるという大きな変化があります。
結局買い取り制度のCRTで、実際には買い取り要求は無いのでこれでいいのでしょう。
それよりもプロトタイプ以外のマシンの規定が変わるので、そちらが注目ですね。
これCRTに代わりなんて呼ぶようになるのかな?市販レーサークラスか?WTCCみたいにインディペンデントクラスか?

プロトとの違いはマレリの共通ECUと共通ソフトを使うということですね。これによってエンジンの年間使用台数が12機とガソリンが24Lとプロトよりゆるくなります。
この規定に沿ってドゥカティとヤマハとホンダが市販用のマシンやエンジンを供給するということが発表されてますね。
しかしこれだとエンジンバリエーションは今より少なくなるような気がしますね。今年はFTRカワサキが4台走ってるけど、このうちフォワードレーシングはヤマハとすでに口約束してるみたいだし、ホンダの市販レーサーやドゥカティのマシンの供給先はまだ発表になってないから、いまからでも間に合う。チーム数は増えないからどこかが使うことになるでしょう。そうなるとカワサキを使う意味がなくなる。
アプリリアは今でも十分速いので、買い取りが無いとなるともっと本気でMOTO GPマシンを作れるだろうから、ARTは残りそう。CRTのホンダCBRエンジンもなくなるでしょう。
そうなると来年はホンダ、ヤマハ、ドゥカティ、アプリリアの4メーカーということになるかな。

これからどんどん発表になっていくだろうから、チェックし続けないとだめですね。

2013年8月 2日 (金)

【エヴァンゲリオン初号機】作ってみた

とりあえず完成形

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バンダイのキットはほぼ素組でOKであります。
しかもパーツに色がついてるので塗装すらほとんどいらない!
どうしても色分けしないとだめなところはシールがついてます。
今回はそのシールでの色分けのところを一部筆塗りで塗装しました。

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これはいったん組上がった半完成状態ですね。
パーツの表面がプラスティックのままなので光沢があり、このままだといかにもおもちゃっぽいのでスプレーでつや消しクリアーを吹き付けます。

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こんな感じでクリップなんかではさみスプレー塗装します。
表面の艶がなくなってるのがわかると思います。

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つや消しにするだけでかなり雰囲気が落ち着いてプラスティックっぽくなくなりいい感じです。

塗装部分は、目、目の周り、角の緑、手首の後ろの緑、胸と肩のオレンジ、胸のオレンジの周りに墨入れ、親指人差し指のオレンジ等を筆で塗装しました。

緑は蛍光イエローと青で調色、目等オレンジ部分は下地にシルバーを塗ってから蛍光オレンジを塗ってます。

エヴァのことはわからないのでこんなもんでしょう。

巨大古墳を造る

史話 日本の古代㈣
巨大古墳を造る:大塚初重/編

史話 日本の古代というシリーズ物の4巻です。

大塚先生が編集となってますが、中身は18人ほどの先生がいろんなところで発表されてる論文や著作の一部を集めて一冊の本にしたものです。

最初はいきなり江上先生の騎馬民族征服王朝説、それに続いて佐原先生の騎馬民族は来なかったです。
ここで紹介されてる部分は大体それぞれの先生の本で読んだことがある部分でしたね。

佐原先生の騎馬民族説に対する反論では他の先生の騎馬民族説の考え方の危険性が指摘されてます。というのは、ある民族の優位性を強調すると、もう一方の民族を劣等民族と見ることになるという指摘ですね。これはナチスのユダヤ政策に通じる危険な考え方であると。
ほんとにそうですね、騎馬民族が優れているから日本を支配したというのはちょっとどうかな。まぁ騎馬民族説はいろんな形でしっかり批判されて正当性は完全に否定されてるのですが、佐原先生も危惧されてるように、一般の人の間では相変わらず人気のある説だというのは面白いですね。
それは一つには江上先生の頑張りと反論する先生の声が小さかったからか?と佐原先生自身が反省されてますね。
いまでも突拍子もない説を発表される方がいらっしゃいますが、そういう人の説は、その説の実証以前に論理が破たんしてるように思われるが、そこはすっ飛ばして強硬に自説を主張するとところに違和感を覚えますね。

この本は古墳時代に関するいろんな先生の考え方がいっぺんに読み比べることができるので、非常にわかりやすくできてます。
というのは、ある先生の本を読んでると、こちらにはそれほど知識がないので、偉い先生の論文だからと無批判に信じ込んでしまうんですが、この本だと、すぐ次の先生の話で、先の先生の話を批判的に書いてある論文が載っている。
これはすぐに意見の違いを比べることができて良かったです。

今回の本では先日読んだ白石先生の近畿の古墳と古代史でちょっと疑問に思ったことが、説明されててすっきりした。
それは、白石先生は古墳はその大王の本貫地に作られるという説についてです。
ぼくもこれはちょっとどうなの?と思ってたのです。
特に百舌鳥古墳群については、その説でいくと、百舌鳥に巨大な勢力を持った人物がそこに巨大古墳を造ったということになるけど、どうもそのあたりに4~5世紀に巨大な勢力がいたような痕跡はないように思うのですよね。
これは熊谷先生が書いてくれてますが、百舌鳥の巨大古墳は、そこにあった勢力の首長が古墳を造営したのではなくて、ヤマトの勢力が古墳だけを国の入り口にあたる百舌鳥に造ったという方がすっきりするように思う。だいたい百舌鳥や古市に都はなかったようだしね。

あと興味深かったのは、古代においては雄略朝が強く意識されてるのではないかという岸俊男先生の話です。
「古事記」「日本書紀」「万葉集」などで内容や書式などで分類してみた時に雄略天皇のところが重要な区切りになってるのではないか、という説ですね。
継体王朝はよく交替王朝のようにして出てきますが、雄略王朝のほうが古代では区切りとして強く意識されてるのだとしたら、そこに何があったのか?頭の片隅に置いておくとこれからの古代史の見方も変わってくるかもしれないですね。

古代史私注

古代史私注:松本清張

松本清張さんはもちろん推理小説で有名な方であります。本職の推理小説も大変面白いですが、清張さんの古代史関連の本も歴史に対する氏の独自の解釈が非常に面白く勉強になります。

この本は雑誌に連載していたものをまとめた本になるようです。一回の分量が原稿用紙3枚にしていたようで、一つの話題を短く説明されてますが、一回では収まらず何編かに渡って同じようなテーマでいくことがありますね。

さて清張先生は小説家という立場から古代史を見ていかれるのですが、単なる趣味で古代史をやってるという領域ではないです。特に漢文にお詳しいのか、原文で漢文を理解されるのか、時に歴史の学会の定説とはぜんぜん違う解釈をされます。
しかし、歴史の学会は清張氏のような歴史家、学会の中の人でない人の意見はほとんど無視されますね。現在でも梅原猛さんや井沢元彦さんなんかの歴史の見方も無視されてるようで残念です。

この本が書かれたのはもう結構昔になるので、出版以降の目覚ましい考古学的な発見や新たな知見については反映されてないので、その辺は古さを感じるし、現在の定説とは違ってきてる話もありました。

しかし清張先生の漢文の解釈は定説よりもシンプルでわかりやすいなと思うことがあります。
先生は”魏志倭人伝”についてはよく研究しておられるんですが、今回も「一大率」と「一支率」についてでは、前にある「一大国」が「一支国」の誤りが定説なのだから、この部分の「一大率」も「一支率」とするほうが正しいのではないか、その方が意味も通りやすいと言っておられます。ぼくもこの清張説のほうが自然ではないかと思いますね。

この本ではないですが、以前に読んだ本でも、”魏志倭人伝”の邪馬台国の各国までの距離についても、その記述が具体的にそれぞれの国間の距離をあらわしてるのではなくて、その数字にはあまり意味はなく、”遠い国”くらいの意味しか持たず、そこにあてられてる数字は当時の良い数字を当てているのだという説のほうがよほどすっきりすると思う。
先生はこういう検証をするとき、魏志以外の中国書もいろいろ取り上げて似てる事例を出されるので納得しやすいです。
”魏志”のような古い中国の歴史書が距離を正確に書いてないということは、今回の本でも紹介されてます。中国の西の、大陸の中央部の方の国の距離が結構でたらめで、距離の数字をあまり重要視しないほうがいいということを言ってますね。

清張先生はほんとに広く日本だけでなく中国や中央アジア、ヨーロッパの歴史、文化にも深い知識があり、いろんな日本の古代文化の中にそういう遠い西の国の影響が見られるということをいろんな事例を上げて書かれています。
そういう考察はすごいなと思う反面、ちょっと僕には違和感を覚えるところもあります。
というのは、古代に遠くエジプト辺りからの物や人が日本列島に来ていたということを否定するものではないし、そういうこともあったろうとは思うんだけど、日本の古代文化の細かい部分が似てるからといって、何でもかんでも外国文化の影響、または物まねというのはちょっと違うんじゃないかなと思うのです。
今でも、古代史ではなんでも半島からの影響と結びつけたがるけど、もっと日本人の独自の文化という見かたでもいいのではないかなと思うことがありますね。

この本は古い本なのであまり今から読む人は少ないとは思いますが、最後に一つ。
この本ではたくさの写真が紹介されてるのですが、法隆寺の写真が左右反転で間違って焼きつけてますね。見た瞬間違和感を覚えて、前にある伽藍配置の図と見比べても写真が反転してるのは明らかですね。五重塔と金堂が右左逆なのですぐ解ります。

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