« 【インディー】第3戦 ロングビーチ | トップページ | 【WACHSEN】ライト粉砕!?・・・他 »

2013年4月25日 (木)

古市古墳群と百舌鳥古墳群

4世紀~5世紀の大阪にある巨大古墳群、古市古墳群と百舌鳥古墳群は大和川の河口付近にあります。
最近は両古墳群を一体で世界遺産にと盛り上げようとしていますね。

古市古墳群の中で中心的な古墳は応神天皇陵、百舌鳥古墳群は皆さんもご存知仁徳天皇陵であります。

両古墳群は地形的には東西に並んでいる形になってますね。

さぁここで僕が最近気になったのはなぜ古市古墳群は羽曳野あたりで、百舌鳥古墳群はそこから西に行った堺に位置しているか、ということです。

現在の地形、大阪平野の上で見ると内陸にあるように見えます。
しかし古代の大阪平野は縄文海進によるのか、大阪湾は上町台地を残していまの大阪市東部や東大阪、八尾あたりまで海だったのですよね。
これと両古墳群の位置関係を最近考えるようになった。

仁徳天皇陵は大阪湾に近いので、ヤマトの玄関口に造られたということを言っておられる先生もいますが、古市古墳群では”ヤマトの玄関口”に造られてるという説は聞いたことがないんです。
では古市古墳群はなぜ東よりのあの場所に造られたのか?

僕がふと思いついたのは、古市古墳群もやはり造られたときは”ヤマトの玄関口”だったのではないのか?ということです。

大阪湾を入ってきて、淀川を上って、上町大地の東側をまだ船で進むことができた時代があった。
そうすると、現在の八尾市あたりが大和川の河口で、ちょうど羽曳野辺りがヤマトの玄関口だったのかな、なんてことを想像しています。

ヤマトの入り口に巨大古墳を造るのは、やはりこれだけ大きいものを作る力があるのだ、ということを見せるためではないかと思うので、そういう意味合いであの場所になったのかな。

はじめに書いたように大阪平野は現在の形とはぜんぜん違ったのです。
古市は大和川の河口で、ここから大阪湾に流れ込んでいたのです。
そうすると古市古墳群の時代はまだ淀川、上町台地の北側から東側に回りこんで、古市のあたりから大和川でヤマト入りしていたんではないのかな?と思った次第です。
その後大阪湾が引き上町台地から回りこめなくなったので、津守~住吉~堺方面に船つき場になったので、仁徳陵も堺側に移ってきたんではないでしょうか?

« 【インディー】第3戦 ロングビーチ | トップページ | 【WACHSEN】ライト粉砕!?・・・他 »

歴史関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/582317/57247357

この記事へのトラックバック一覧です: 古市古墳群と百舌鳥古墳群:

« 【インディー】第3戦 ロングビーチ | トップページ | 【WACHSEN】ライト粉砕!?・・・他 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ